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本性

それは自己啓発本のようだっだ。

人生は漫画やアニメやドラマのようにカッコ良くは
いかない。その際たる例が「悔しい気持ちを持続させられない」ことを僕は1番にあげる。
どこかで許したり、切り替えたり、諦めたり、
最悪は忘れてしまう。
そんなことを繰り返して永遠に悔しい思いをする。

そうすることが全うだと学んできた。

アーサーの殺傷する判断は全うだった。
傷つけられたから傷つける。が、
恋をした女性、
市に守られなかった保健所の役人、
難病を抱えたピエロの同志、
無垢な代議士の息子、
殺さないキャストも描かれた。
むしろ、生かした者の方が感情から殺気が溢れていた。

アーサーの忍耐力は強靭だった。
自ら殺しに行くことはなかった。
電車で絡まれたり、
家を訪ねて来たり、
番組にオファーされたり、
僕はここが1番魅力を感じて好きだった。
醜い奴はここの感覚が往々にして疎い。
爪を立てなおも食い込ませてくる。
そういった者にアーサーは容赦しなかった。

が、すぐには殺さなった。
会話をしたのだ。ここに驚いた。
限界まで耐えて耐えて耐えて、ついに動く。

アーサーは決断してからの殺傷が早かった。
糸が切れたらすぐ殺す。
まさにカリスマの決断力だった。
殺す時はズドンッと1発で仕留める。
シーンも1秒よりも短いフレーム単位の配慮が施されていた。死体をアップで見せない。

拳銃を打つ際はあくまで現象が見える引きの画
頭部を打ち付ける場面も頭部は映さずアーサーの顔だった。惨さを見せない。
監督の清潔感が透けて見えた。
感服した。

感情が抑え切れなくて、殺した後に拳銃をもう1発打ち込んだり、殺した後に項垂れたりする情緒が人間を凄まじく感じた。

全編通して僕は涙しなかった。
主人公が泣かなかったからだ。
まさに喜劇だった。
いつも笑っていた。持病が理由だけではない。
僕はそう解釈している。

これまでの名画のオマージュもふんだんに織り込まれていた。が、好き故のパロディーとは毛色が違った。トッド・フィリップス監督や共同で脚本を書いたスコット・シルヴァーの中で生きる名作を役に投影したような映画の中で映画を流すような洒落が効いていた。こういうオマージュが次の世代、つまり僕達のような制作者を魅力をする。愛嬌と実力差に身震いした。

チャップリンを見て、笑うアーサー。
尊敬と挑戦を感じた。カッコ良すぎた。
こんなものを描ける狂人と戦わなきゃいけない。

自分を出す加減がこの年になってもわからない。
色を出していいと言われ好きに彩れば、
それは暴走だと罵られた。
意見を押し殺し尊重をする意思を見せれば、
それは自分がない奴だと吐き捨てられた。

そんな中、友人から有難い連絡をもらった。
彼女はとても聡明だ。
中学生の頃に好きだった女性だった。

とびの文章読むの楽しい。なんてゆーか…
「とびたりゅうへい」が見たもの感じたもの過ごした時間や環境や興味のむいてるものこと…などなどを文章にしているけど、他人からしたら
とびから溢れてるエネルギー?熱的な?私はそんなふうに感じた!

ここでの投稿をそう表現してくれた。
「届いているよ。」そう葉書が送られてきた感覚だ。

奇遇にもこの作品にそれを感じた。
これは紛れもなくトッド・フィリップスの作品だ。
大ヒット作のスピンオフ。が、彼の中でさまざまなものを消化して自分の血と肉に変えている。
そして、紛れもなくこれは僕が感じた「ジョーカー」だった。

本当はもっと鋭く描けた作品だったはずだ。
彼は一体どこを抜き差ししたのか。
この作品の本性をまだ誰も知らない。

さぁ、僕はいつジョーカーを引くんだ。
番狂わせを起こせるその一枚を。
さぁ、君はいつジョーカーを引くんだ。
世界を変えられるその一枚を。
それまでに勝てる手札を揃えねばならない。

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