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【気まぐれエッセイ】「美」の意義は、30歳を境に変化する

過去の自分に負けるというのは、美しいどこかの誰かに負けるより、ずっと恐ろしい。例え目立つシワやシミを防いで、間近で鏡を覗き込んでいるうちはまだまだイケていると思っていても、遠くから撮られた不意打ちの写真に、「どこが」とは言えないオバサンっぽさを自覚させられることが、これから増えていくのだろう。そう考え始めると、これから先前向きに暮らしていくには、底知れぬエネルギーが必要な気がしてどっと疲れる。


変化を感じ始める年齢に多少差はあるにせよ、多くの女性が、容姿の劣化とともに世の中での立ち位置が変わっていくことへの恐怖を、どこかのタイミングで感じることだろう。例えば誰かに自分を形容されるとき、「若い女性」から「女性」に変化するところまでは良くても、「中年女性(ひどい場合にはオバサン)」へと変わりゆくのは受け入れ難いという人が、山ほどいると思う。


そこで多くの人が考えるようになる。大切なのは実年齢ではなく、見た目年齢であると。そしてそんなとき希望にするのが、同世代や年上の美しい女性たちではないだろうか。


現に私は、年上の美しい女性たちの存在に、日々励まされている。彼女たちのいつまでも変わらない美しさや、若い頃とは違った大人の魅力に、私がもらっている勇気と希望は計り知れない。

ポテンシャルが違うと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも"年齢によるどうしようもない劣化” ということに関してだけは、まだまだイケると思わせてもらえる。


若い頃の美は、ほぼ自分のためのものだ。憧れの存在というのは若い世代にとっても励みになるし、全く人の役に立たないと言うつもりはもちろんない。でもその人が美しくいることによって最も幸福を享受しているのは誰かと言えば、本人に違いないと思うのだ。

しかし歳を重ねるほどに、美しくいることは自分のためだけじゃなく、人の役にも立つようになる。お会いしたこともない年上の女性たちに、こうして私が救われているように。


若い頃から憧れの女性はいたけれど、10代、20代の頃の私が彼女たちに抱いていたのは「あんな風に生まれていれば」という、限りなく嫉みに近い羨望だった。しかし30代に突入してからというもの、美しい女性たち(特に年上の)に、一切混じり気なしで、心の底から「綺麗でいてくれてありがとう」と感じるようになったのだ。


そのことに気付いたとき私は、また別の面でも救われた気がした。

それは、誰の役にも立たない、自分を満たすためだけのものだと思っていた、私の美意識について。私は自分の美欲を満たすためだけにどうしてこんなに頑張ってしまうのだろうと、ずっと自分の強すぎる美意識を滑稽だと思ってきたし、ちょっと病的だとすら感じていた時期もある。

でも、それでいいのだと思えるようになった。私はただ、綺麗になることが好き。とても厚かましい考えだけど、それがもしかすると誰かのためになることもあるのだろうと思えたから。綺麗かどうかはさせておき、いくつになっても諦めることなく美しくあろうとする姿勢が、誰かを励ますこともあると思うのだ。


「美」の意義は、30歳を境に変化する。

あぁ、歳を重ねるって悪くないと、思えてくる。


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