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そこそこハイパーグラフィア(書きたがる脳)

 こんにちは。銀野塔です。
 新型コロナウィルスに関しては、緊急事態宣言が解除されたものの、まだまだ気を抜けない状況が続くかと思います。今一度、感染された方にお見舞い申し上げ、また医療や暮らしを支えてくださっている方に感謝いたします。また、さまざまな形で影響を受けた方々ができるだけ早くよい状況になりますよう、またそのための施策が速やかにもたらされますように。

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 数か月前のことになるが、ツイッタでハイパーグラフィアという概念を知った。とにかく何かをたくさん書く人のことである。思い当たるふしが多々あったので『書きたがる脳 言語と創造性の科学』(アリス・W・フラハティ著 ランダムハウス講談社)を買って読んでみた。下記に、ハイパーグラフィアの特徴を比較的端的にまとめている箇所を引用する。
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いちばんはっきりしているのは、ハイパーグラフィアの人は大量の文章を書く―特に同時代人と比べて―ということだ(中略)。第二に、ハイパーグラフィアは外部の影響よりも強い意識的、内的衝動―喜びと言ってもいい―から生まれる(書いた分量に応じて支払いを受けるので大量に書く、という人はハイパーグラフィアとは言わない)。第三に、書かれたものが当人にとって非常に高い哲学的、宗教的、あるいは自伝的意味を持っている(支離滅裂な文章を書く脳損傷患者の一部はハイパーグラフィアには含まれない)。第四に、少なくとも当人にとっては意味があるという緩やかな基準はべつとして、文章が優れている必要はない(感傷的な日記を書き綴る人はハイパーグラフィアの可能性がある)。(p.41)
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 うん。概ね当てはまる。
 最初の特徴。大量にというのをどの程度と見るかにもよるが、多分同時代人と比較して決して少なくはない量のものを書いてきたと思う。小学生の頃、作文が好きだった。そしてやたらと長い作文を書いていた。効果的な構成とか、要点をしぼってとかいうことは全く考えず、書きたいことをとにかく全部詰め込んでゆくのでどんどん長くなるのである。たとえば秋吉台に行ったときのことを書いたとき、秋芳洞の中にいくつもある見どころについて、一つ一つ全部説明していったりした。小学校中学年くらいからは自分で言葉による創作も始めた(それ以前はお絵かきをしながら、なんとなく自分なりにストーリーを作ったりしていた)。ファンタジー系の物語を書いていた。中学生くらいの時期を中心に、ノート何冊にもわたる長編のファンタジーものを書いていたこともある(ただし未完に終わった)。高校生時代は、級友の影響で今でいうところのBL小説の創作にハマった。また高校生の頃から意識的に詩作を始めた。大人になってからも某漫画の二次創作をかなり大量に書いた時期がある。詩歌については、三十過ぎてから五行歌も始めた。また比較的近年ブログを始めたり、とにかく、健康がすぐれなかった時期を除いて、何かしら書くということが中断したことはなかった。また、実際に書くというアウトプット作業を行わなくても、私の頭のなかは常に書き言葉ベースで何かしゃべり続けている。書きたいことは常にあるのである。
 二つめの特徴。これはもうそのまま。書くことがとにかく好き。うまく書けなかったりうまく言葉が浮かばなくて悩むこともあるが、それも含めて楽しい。もちろん、私にもそれなりの承認欲求はあるので、書いたものが誰かに気に入ってもらえたり評価してもらえたりしたら嬉しいが、しかしそういうのがなくてもとにかく書くのが好き。上に書いた小中学校時代の物語などは誰も読者はいなかったし誰かに読ませようとも思わなかったがとにかく楽しんで書いていた。漫画の二次創作も、あくまで自分が楽しいという基準で書いたものなのでたとえばコミケ的なところに持ち込もうとは思わず、自分のそういうノリを理解してくれる友人ひとりだけが読者だった。そういえば中学生の時だったと思うが「話すのと書くのとどちらが好きか」みたいなテーマで書かされたとき、いかに「書く方が好き」かをえんえんと書いた記憶がある。また今も、知っている誰かなどに一切そのありかを明かさずに、コメント欄も設けずに、ただ書くために書いているブログもある。ちなみに、書いたことで原稿料をもらったことは一度きりである。それも、もらえると思わずにいたものであり、また詩人の故木島始先生との連詩作品だったため、木島先生のおまけでもらえたようなものである。印税というのも、研究者の卵だった時代に、分担執筆した本のものが本当に微量に入ってくるだけである。結局、諸般の事情で研究者として孵化することはなかったが、その時代も、研究の実作業部分は正直苦手だったけれども書くべき材料さえそろえてしまえば、最後にそれを論文にする部分だけは苦ではなかった。あと、小銭稼ぎにクラウドソーシングサイト経由でライティングをしばらくやっていたことがある。自分の比較的得意な「書く」ということで報酬につながるならやってみようか、という感じで。そして自分の書けそうな案件を選んで与えられた条件を満たす文章を書く、ということにゲーム的な面白さもなくはなかったのだが(自分の中の倫理に反する案件には手をつけていない。念のため)、しかし小銭といえど報酬を得られるからといって自分の書きたいことではないことを書くのはやっぱりそれほど魅力的なことではなく、他のことで忙しくなったりした時期にやめてそのままである。
 三つめ。哲学的宗教的はさておき、自伝的意味はあるなと思う。特に最近は「これを私が書かなかったらなかったことになる」というある種の焦燥感で書いているようなところがある。自分にとって重大なこともだが、ほんのささいなこと、人から見ればとてもどうでもいいようなことヤマもオチも意味もないようなことでも「書いておきたい」と思って書く。私の好きな詩人、中原中也の詩の中でも特に好きな詩の一つに「曇った秋」の3がある。一部引用する。
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君のそのパイプの、
汚れ方だの燋げ方だの、
僕は實によく知つてるが、
それが永劫の時間の中では、どういふことになるのかねえ?……
(中略)
まことに印象の鮮明といふこと
我等の記臆、謂はば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしてゐるといふことは
いつたいどういふことなのであらうか
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 永劫の時間の中ではどういうことになるのかわからないけれど、私にとってまざまざとしているものを書き留めたい、という衝迫感というようなものがある。
 四つめ。これは本当にそうで、そりゃ書くならよいものを書きたいという思いは一応あるけれども、それよりも「書きたいものを書きたい」という衝動の方がまさる。そして「感傷的な日記」についてはまさにまさしく十代の頃書いていた。ある時に「これをうっかり誰かに発見されたら相当恥ずかしいな」と思って全部処分したけれども(現在は、メモ程度の手書きの日記をつけている)。だいたいこの文章からして読みやすさとか文章のよさとかいうことをぶっちぎって、書きたいことを書いているのである。
 あと『書きたがる脳 言語と創造性の科学』には、精神病ないしその傾向とハイパーグラフィアの関連について述べられている。といっても、ハイパーグラフィアの人が皆精神病ないしその傾向というわけではないし、また精神病ないしその傾向の人が皆ハイパーグラフィアというわけではないのももちろんだが、ある程度の関連性は見られるということである。で、私もメンタルヘルス方面は若干の難ありなので、そういう意味でもハイパーグラフィア的ではある。
 そういうわけで、多分、すごいハイパーグラフィアの人と比べると産出量はたいしたことない方に入るだろうけれど、そこそこハイパーグラフィアとは云えると思う。

 私のハイパーグラフィア傾向には、遺伝もあるだろうな、と思っている。父がハイパーグラフィアか、少なくともその傾向はあった人なのではと思っている。職業的にも書くことに縁があったが、引退してからも、自分の追求するテーマについて、フリーペーパーのようなものを作って友人知人にせっせと送ったりしていた。

 そんな父は、ワープロ専用機が出はじめた頃、人に先駆けて取り入れていた。だが、年齢が上がって、PCに移行しようと考えたらしいが、うまくゆかなかった。やがて、ワープロ専用機を扱うことも出来なくなり、フリーペーパーの発行もやめた。本もよく読む人だったがその力も衰え、要介護状態となり今は施設にいる。
 そんな父を見ていて、私は「私だっていずれそうなるかもしれない。だから、書きたいことは書けるうちに書いておかないとな」と思った。また、詩歌を自分のメインと位置づけてきた私は、散文に関しては「人に読ませるに足るいい文章とか書けないし、そのための努力とかする感じじゃないし」と思ってきたが「いや、そういう私の文章でも、ひょっとしたら読んで何かを思ってくれる人がいるんじゃないか?価値があるとかないとかにとらわれず人前に出してみてもいいんじゃないか?」という図々しさのようなものも近年出てきた。
 そういうわけで、ここのところ散文も一時期と比べて書くようになり、またそれを人前に出すようになった。その最初がブログ「羽生結弦選手について地味に語ってみる。」だったりするのである。
 また、昨年秋から栢瑚kashiko五行歌部(仮)で活動を始めてそちらでもブログnoteを書くようになったり、またこうしてここでnoteを始めたり、詩歌の方も詩と五行歌のみならず短歌や俳句も書き始めてみたりして、なんだか節操のないことになっているが、今はとにかく、書きたいことを書けるだけ書こう、という気持ちが強い。
 といっても、私は基本的にエネルギー量が乏しい。書くのは意外とエネルギーを消耗する。楽しいのだけれど、空いた時間さえあればずーっと書いていられる(若い頃はそういうところもあったが)というものでもない。まあ、そんな自分と折り合いをつけながら、書きたいと思うことを出来るだけ書いてゆきたい。また「たくさん書きたい」と感じているのは主に散文であって、詩歌はそんなにたくさん発想が生まれてくるわけでは残念ながらない。でも詩歌はやっぱり私のメインだと思うので、私なりの力の注ぎ方をしてゆく。

 ちなみに『書きたがる脳 言語と創造性の科学』には「書きたい」方面の話だけでなく「書こうと思っても書けない」状態すなわちライターズ・ブロックについてもいろいろと述べられている。また全体として、脳科学等の客観的知見をしっかりと押さえつつも、書きたいという衝動やインスピレーションといった主観的な体験もまた大事にしている、そういう点で好ましく、また読み応えのある本である。

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