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この世界の入場切符

「多田野有正〈ただのありまさ〉様。大変失礼致しました。あなたはお生まれになる世界を間違えた魂です」
 深夜バイト帰り、朝日がまぶしい六畳一間ボロアパートの一室。手狭そうに羽を広げた天使が現れて突然そんなことを言った。
「え? 何? 僕、もう寝てた?」
 思わずすすっていたカップラーメンをすべて膝の上に落としてしまった。ジーパンはとうに脱ぎ捨てて、トランクス一枚になっていたのでわりと本気で熱い。どうやらこれは、夢じゃないらしかった。
「完全にこちらの手違いです。誠に申し訳ございませんでした。あなたはこの世界に100パーセント適合しておりません」
 七三分けに細身の眼鏡、しっかりと着こなしたスーツ、背中には純白の羽。どう考えても、最後だけダウトだろう。合成写真のような天使がうやうやしげに頭を下げる。
 確かにろくでもない人生ではあったと思う。親は結局どちらも僕をほっぽって違う相手と新たな人生始めちゃうし、引き取られた親戚の家でも、小学校でも中学校でも高校でも、いつだって僕はいないみたいな存在だった。高校卒業を境にひとりで暮らし始めてからは、晩から朝まで昼夜逆転バイトして、とにかく今月生きていけるかってことだけを考える毎日だ。道を歩けば犬のウンコ踏むし、鳩のフンだって被弾するし、エレベーターの扉は目の前で閉まるし、僕の傘だけ置き引きされるし、とにかく世界に愛されてないんだなってのはずっと感じてた。
 ――でも、まさかそこまでなんて誰も思わないだろ?
「ぼ、僕よりももっとしんどい人生歩んでる人はいると思うんだけど……」
「そうですね、いらっしゃられると思います。ただこれは程度の問題ではなく、確率の問題なのです。あなたは今までもこれからも誰にも受け入れられることがありません」
 あまりのことに言葉を失っていると「絶対です」などと追い打ちをかけてくる。
「多田野様は何一つ悪くございません。しかし、魂の形がこの世界の歯車になにひとつして噛み合わないのです。あなたの頑張りは何一つとして実を結びません。繰り返します。これは、【あなた】の問題ではございません。【魂と世界との齟齬】の問題なのです。今すぐ多田野様の本来の世界に生まれ直しましょう」
 さあ、と手を差し伸べられて、「待って待って待って」と思わず止めてしまった。
「ぜ、全然ついていけないんだけど。生まれ直すとか……じゃあ今の僕はどうなるの?」
「もちろん全部消えます」
「全部って……?」
「あなたのいた形跡、すべてです。存在自体なかったことになります。まあ、そもそもいたことが間違いですからね」
 唖然。愕然。何だそりゃ。
 思わずばたり、後ろ向きに万年床に倒れ込んだ。ぺらっぺらなせんべい布団は少しも柔らかに僕を受け止めてくれない。後頭部が痛くて、それでようやく頭が冷えた。
「……まあ、べつにいいけど。こんな人生、愛着もないし」
 天使の言うことは完全に図星だ。呆れるほど何もない人生だったのだ。惜しむ要素なんてなおのこと。あるとしたら徒労感だけ。
 少なくとも今よりはマシな世界が待っているのなら、願ったり叶ったりじゃないか。
「いいよ、行くよ。その本来生まれるべき世界とやらにさ」
「ご理解いただき、誠にありがとうございます」
 この上なく信じがたい状況も、信じたくない理由さえなければ案外受け入れられてしまうものだ。
「ああ、先ほどすべてが消滅すると申し上げましたが、ひとつだけ例外がございます」
 天使はぴっと一本指を立ててみせた。
「一通、手紙を残すことができます。いつ、どこの、どなたであってもかまいません。私が必ずやお届け致します」
「……」
「大変失礼致しました。そんなお方、多田野様におられるわけないですよね……」
 ぐっとなって、思わず言い返した。
「いるよ! 僕にだって、ひとりぐらい!」
 机の中にひっそりと折りたたまれた紙の白さが脳裏によみがえった。
 あれは中学一年の夏だった。その日特別嫌なことがあったわけじゃない。いつものようにろくでもない一日。日々吸い込んだ花粉が、ある日許容量を越して花粉症になるのとおなじだ。日々のうんざりすることが許容量を越して、もういっそ死んでしまおうと思ったのだ。
 移動教室からクラスに戻る途中、笑い声響きひかりあふれる廊下で方法をあれこれ考えた。そうして自分の席についたときだ。机の中に見慣れぬ白い紙を見つけた。どうせ『死ね』とか書いてあるんだろう。そのまま捨てようか迷ったけど、もう今更何があってもおなじだしと思って開いた。

 『きみががんばって生きてきたことを知ってるよ』

 手紙にはそれだけ書いてあった。差出人の名前はない。
 不思議といたずらだとは思わなかった。ちょっとつたない文字、だけどそこに込められた思いを感じ取ることができたから。これはまぎれもなく、ほんとうの言葉なんだと。
 アホみたいに泣けた。周りのやつらにドン引かれたって気にしなかった。だって誰だか知らないけど僕にはひとり味方がいる。僕を見てくれているんだ。
 その後も誰かは誰かのまま。手紙の送り主に出会うことはなかった。それでも、はっきりと言える。ここまで踏ん張って生きて来れたのは、あの手紙があったからだ。
「……名前がわからないひとでも、いいの?」
「天使に不可能はございません」
 この家に便箋のようなものはないので、かろうじてあったノートの1ページをびりと破った。小さなテーブルには食べかけのカップラーメン。どうせいなくなるんだしとやけっぱちな気持ちになりかけたけど、もったいなくて残りを一気に汁ごとすすった。器と割り箸をゴミ箱に入れると、空いたスペースを雑に腕でぬぐってから紙を置く。ボールペンはそのへんに落ちていた。すぐ横で携帯が鳴る。『今日のシフト代わってくんない?』何回目だよ。見なかったことにして、机に向かう。
 なんて書こう。ありがとう? あなたのおかげでここまで生きてこられました?
 『あ』と書こうとして、止まった。
 ――おかげ様で生きてきたあげくに待ってたのがこんなオチなんですけど。
 僕は今の僕じゃない僕になって幸せになるんだって。それって僕なのかな。もう僕じゃない別物なんじゃない? よく分からなくなってきた。
 このどうしようもない、置き去り感。
「僕の人生ってなんか意味あったのかな……」
「率直に申し上げると、どなたの人生にも意味はございません」
 まったくもって求めてない返事が返ってきた。なんか肯定をくれよ。その他の人々の人生までまとめて否定するんじゃないよ。だんだんと苛々してくる。
「あのさ、生まれ先を間違えた補償とかないの? 元々僕の不幸はあんたたちのせいなんでしょ」
「おっしゃる通りです。生まれ直した後のあなたの人生の幸せは、我々が『運』という形で確実に保証させていただきます」
「また、次の僕の話かよ……」
「生まれ直したあなただってあなたですよ」
「……でも、今の僕じゃない」
「そこ、こだわります?」
 魂単位でひとを見ているらしい天使は、はてなと首をひねる。こいつに理解を求めたのが間違いだった。地の底を這いずるようなため息が出た。
「もっと早く見つけてくれればよかったのに」
「それは誠に申し訳のないことです。前任の担当者が書類のミスを隠蔽していたもので、発見が遅れてしまいました」
「書類の、ミス……」
 何回目の何だそりゃ。聞かなきゃよかった。
 また白い紙に向き直る。今度こそ何も思い浮かばない。だって、ここまで生きてきてよかったのかもう分からない。
 無意味で無駄な19年。辛いのに耐えちゃったよ。もしかしてって諦めきれなかったよ。いつかとかいう寒い夢、捨てきれなかったよ。
 必要ないじゃん、それ全部。
 どうせリセットされてしまうのなら。
「……その手紙って過去にも飛ばせるの」
「あなたがお望みなら」
 手紙の送り主に、書くのだ。『間違ってもあんな手紙送るな』って。
 だいたいわかったふうなこと書きやがって。会いに来なかったくせに。僕は探してたのに。ずっとずっと探してたのに。それこそがすべての答えなんだって早く気がつけばよかった。名前を書かない人間の言葉なんて、これっぽっちも重みがないんだって。むしろ逆のことを書いてくれたらよかった。何頑張っちゃってんの? 全部意味ないよ。お前の人生、そもそもが間違ってるんだって!
 ぽた、ぽた、ぽた。
 顎から涙がすべり落ちた。書けなかった。とても、奪えなかった。
 それはつまり、あのときの、ぼろ雑巾のような僕に『死ね』と言ってるようなものだから。
 教室の笑い声、放課後の喧騒、手を繋ぐ親子連れ、自分に向けられるあたたかな視線。憧れて憧れて仕方がなかったもの。どんなに手を伸ばしても届くことがなかったもの。
 どれだけ嬉しかったかなんて、きっと誰にもわからない。
 手紙を受け取ったときの、震えるような喜びを覚えている。目の前にひかりが射した。お前は生きていていいんだと言われた気がした。
 あの日、はじめて、世界に僕だけの場所が用意されたんだ。
 たった一通の手紙が、この世界への入場切符だったんだよ。
「あっ」
 その瞬間、あっ、と声を出しそうになった。というか出てしまった。
 ――もしかして、そういうこと……なのか?
 たっぷり五分は放心していたと思う。
 でも、五分後の僕はボールペンをぎゅっと握り直していた。
 あまりの衝撃に字まで震えてしまいそうだったけど、深呼吸しながら一字一字ゆっくり書き進めていった。見覚えのある、つたないけれど思いの込められた文字。

 『きみががんばって生きてきたことを知ってるよ』

 何ひとつ報われなくても、「またうまくいかなかった。でも、僕頑張ったんだよ」って名前も知らない誰かに語りかける。そうして見上げる空はいつだってばかみたいに綺麗だった。
 無意味かもしれない。無駄かもしれない。でも、あの空をあげたい。
 あの手紙があったから――僕はずっとひとりじゃなかったんだ。
「――書けた」ずずっと鼻をすすりながら言うと、
「どなたにお届けしましょう」ティッシュを差し出しながら天使が訊いた。
「過去の僕に。中学一年の夏、僕が死んでしまう前に届けて」
「かしこまりました」
 これで過去の僕は救われることだろう。今の僕だけが救われないわけだが。
 またも万年床に突っ伏すと、今度こそこのまま立ち上がることができなさそうだった。
「……唯一の理解者が結局僕っていう事実。ほんとうに、ろくでもない人生だわ」
「私も知っていますよ」
「へ?」
 ちらと目だけ動かすと、天使はご心配なくとばかりに微笑む。
「書類上ですが、あなたの人生のことなら一通り存じております。そして、私はこの世のものではございませんので、あなたを忘れることもありません」
 いや、そんなこれで万事解決みたいな顔されても。
 はあと体中の息を出し切ると、すうとその分新しい空気が入り込んだ。隣の部屋からはゴガア! とおっさんのいびきが漏れ聞こえ、カーテンの隙間から射しこむ日差しで舞い落ちる埃がちかちかと光っている。
「あのさ、僕のこれから行く世界ってどんなところ?」
「この世界とあまり変わりはありませんよ。あなたとすべてが噛み合うわけではありません。ただ――そのままのあなたが受け入れられる場所が、きっとあります」
「はは……ウケる。なんだか、天国みたいだね」
 この朝の僕を欠片だけでも持って行ってくれますように。
 天使が再びうやうやしくこちらに手を差し伸べてきた。起こしてあげよう、というわけではないだろう。ちょっと迷ってから、おそるおそる手を伸ばした。
「手紙、ちゃんと届けてね」情けないことに、声はちょっと震えた。
「はい、必ず」ふぁさりと羽までお辞儀した拍子に棚の上の小物がいくつか落ちた。後でちゃんと直しておけよ。
 手が触れる寸前に「もうひとつだけいい?」と前置きして、ぎゅっと握った。
「――ちゃんと届けてくれてありがとう」
 世界が一瞬で真っ白に染まるなか、笑いを含む「どういたしまして」が柔らかに僕を受け止めた。

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