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コントロール幻想 五輪とウクライナ侵攻に思うこと

画・ピーテル・パウル・ルーベンス「聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟」

北京五輪直後のロシアによるウクライナ侵攻については、政治、経済、歴史的因果関係、戦争そのものについて様々な考えが多数の記事で述べられております。
ここではその全ての背景にあって、あまり語られていないコントロール幻想について試論を述べたいと思います。

コントロール幻想とは何か。
アメリカの心理学者エレン・ジェーン・ランガーが提唱した説で、詳しくはウィキペディアや専門サイトで知ることができますが、現在ではこの言葉の便利さから、多様な使われ方をしています。

もともとの定義は、主体的に行うものごとに対し、人々が支配できている・できると錯覚すること。

たとえば、おみくじで「大吉」を引くと、自分がその手で引いたものであることから、現実に良いことが起こるような気がします。逆に、誰かが代わりに引いたものを与えられると、自分とは関係のないもののように思われます。
受験生に必勝グッズを与えたり、必勝フードを食べさせたりすることで、あたかも受験の結果に、影響を与えられるような気持ちになります。

賭博、エンタメでの投げ銭、特定の飲食店では、特定の選手、馬、乗物、アイドルやタレント、キャスト、いわゆる「推し」などへ、自分のお金を費やして応援したのだから、より良い結果が出るに違いなく、その結果は自分のおかげである、と錯覚することです。

これらは人をポジティブにさせる錯覚であり、現実的には何の効果がなくとも、精神的な支えとなって日常生活を快活なものとする効果があります。

しかし、もしこの錯覚を過剰に欲すると、たとえば賭博がやめられない、経済力を超える多額の出費をいとわなくなる、といった状態になります。そのような中毒は他の全ての価値を無視し、破壊しますから、やがては家族、仕事、人間関係を犠牲にし、そのつけを自分や誰かが支払うことになります。

このように、コントロール幻想は、個人においてすら、破滅的な中毒の危険があり、ましてや国家レベルになれば、その影響は計り知れません。

ときに、日本においては「〇〇神話」など、関係者によって安全性や確実性が過大に評価されることがあります。

たとえば「原発の安全神話」は、東日本大震災において脆くも崩れ去りました。「神話」の正体は、国家規模の投げ銭によって生まれたコントロール幻想です。莫大な利益が見込める原発ビジネスには、危険なことなど一つもないという幻想に多くの人々が支配され、本来、幻想が入り込む余地がないほど厳格に管理されるべきものであったにもかかわらず、むしろ幻想のほうを信じたという事実は、多くの示唆を我々に与えます。

有力者である自分たちが、開発を推進している賢い自分たちが、莫大な投資を管理している有能な自分たちが、揃って関わっているのだから、間違いはあってはならない。そんな態度が、やがて「間違いなどないはず」という幻想を生み出しました。

私は、東日本大震災からしばらく経ってのち、原発開発に携わる方とお話する機会があり、そのときその方から「津波に確実に耐える原発の設計と建設は可能である」と聞きました。
「ではそもそも沿岸部に原発建設をしておきながら、なぜそうしなかったのか?」と問うと、「誰も言わなかったから」というのが答えでした。

言われればできること、言って当然のことがらを、おびただしい数の関係者の誰も指摘しない。

これが、幻想の恐ろしいところです。もっと言えば、当事者には、現実と幻想の区別がついていません。何しろ、ものごとを肯定的に受け止め、推進するための幻想なのですから、ブレーキをかけるようなことを口にしてはならないような雰囲気も作られていきます。

国家の運営においては、コントロール幻想を拠り所とする危険な気分が醸成されてはいないか、常に国民が、注意深く観察していくべきなのです。
国家の運営者のほうは、幻想と現実の区別をつけることが困難なのですから、国民が客観的に指摘するしかありません。

この適切な指摘が届かず、幻想であると半ばわかりつつ開催されたのが、東京五輪であるといえます。

コロナ禍において「五輪は開催ありきである」、「何もかもが万全にコントロールされている」という幻想をしいられたことで、私もそうですが、多くの人々がストレスにさらされました。
むろん、開催に関わった全ての人々もまた、大なり小なり、同様の辛苦を味わったことでしょう。

もしかするとあるいは、五輪を開催しなければならない様々な理由を、多くの国民に納得してもらいながら、可能な限りの防疫努力を行い、その努力を海外から来た方々とも共有することで、「みんなが頑張った」という実感を得る機会になったかもしれません。

開催に関わった人々や出場した選手の多くが、強くそう願っていたはずです。

しかし、「2021年にはコロナは収束して五輪が開催できる」という根拠のない幻想が先行したため、「開催できないはずがない」という次の幻想が生まれました。

さらにはもともと存在した「東京の夏はスポーツに最適である」という幻想についても同様で、どのような有力者も識者も、積み重なる幻想を消すことができませんでした。最終的には、「開催にはこうした困難が伴うが、それでも開催する価値はどこにあるか」といった議論が排除され、「開催してしまえば何とかなる」という短絡的な考えまで生まれました。

結果、選手を様々な危険にさらすことも辞さない強行五輪、といった危うい印象を残すこととなりました。コロナをふくめ、いかなる原因で死亡したとしても、それは「選手の自己責任である」という態度がまかり通ったことは、よくよく気をつけるべきことでしょう。

戦争は起こさねばならず、兵士が死んだとしてもそれはやむを得ざることであり、もっと言えば兵士の自己責任である。経済不況は必然であり、国民が貧困に苦しんだとしてもそれは国民の自己責任である。このような幻想を、次々に生み出すことが予見されるからです。
多くの幻想がやめられない中毒となったあとのつけは、そこで生活し、直接利害を被る人々へと押しつけられるのです。

そして今、最も懸念を抱かされるのは、米中露の有力者たちが揃って打ち立てる巨大な幻想、「自分たちの国をかつてあった理想的な状態に戻す」という考え方です。

アメリカではトランプ大統領が「偉大なアメリカを取り戻す」と叫びました。
中国では習近平国家主席が「偉大な中華を取り戻す」という主張をもとに「本来の中国の姿」を「国恥地図」などでビジョン化させました。
ロシアにおいてもプーチン大統領が「ソ連再び」を堂々と口にしています。

どんな人間も国家も、過去の理想的なあり方を模範として現在を生きるのは当然です。歴史というものを大切にする意義の一つです。
しかし、「過去の状態を取り戻す」という態度は、それとは画然と異なり、様々な問題をはらみます。

第一に、いつの時代のことかが曖昧で、実は歴史上存在しなかったとしても、幻想としての都合の良い「かつての過去」が成立してしまうこと。

第二に、周辺諸国の状況を完全に無視し、従わせようとすること。

第三に、国民の意向や実情を無視し、従わせようとすること。

アメリカで起こる現象の多くは、時間差で日本に伝波します。偉大なアメリカという声が、やがて日本でも「実はすごい・すごかった日本」といった言説となってあらわれ、あたかも「国民はみな株による長者になれる」といった錯覚が生まれたり、「国威発揚としての東京五輪」が期待されたりもしました。

日本では、そうした幻想は早々に破綻をきたし、幻想で利益を得た人々はごく僅かで、そのつけである負債は大部分の国民に押しつけられることとなりました。

アメリカでは、世界のバランスの変化によって、いつしか民主国家の筆頭にして世界の中心という立場(幻想)が失われ、分断が横行しています。様々な分野で建て直しがはかられていますが、分断で利益を得る人々もおり、相矛盾する幻想が日々生まれては消えるということを繰り返しています。

他方、ロシアや中国においては、専制的な政治体制によって様々な幻想がいっそう強固に維持されています。そしてロシアでは、その幻想が軍事衝突をも辞さないほどに強力であり、のっぴきならないものであることが明らかとなりました。

こうしたあり方は今後あらゆる分野に影響し、たとえば冲方の身近なところでは、中国が思想統制の一環としてエンタメ分野の引き締めを強行したことから、チャイナマネーを前提とした企画は、のきなみ見直しを迫られる見込みです。
同様にあらゆる人々に影響をもたらしながら、有力者による幻想の実現という強烈な推進力により、百年に一度といった世界的な変化を迎えているといえます。

ここで重要なのは、幻想に支配された相手が猛威を振るうからといって、自分たちも別の幻想を用意して対抗しようとしてはならないということです。相手の幻想に引きずられ、自ら破滅的な幻想を選び、それを現実と思い込んでしまいかねません。
あちらが帝国主義で来るなら、こちらも同じようにしよう、などといった考えは、どちらも幻想であるためいつか破綻をきたします。

現代の私たちの生活は、かつて政治家や有力者でなければ得られなかったであろう情報を安価に得ることができ、個人の努力で、どうにか幻想に巻き込まれず、より適切に指摘することが可能となりました。

これは、賢ければいい、愚かだから巻き込まれる、という問題ではありません。
幻想に従わない者を排除するという圧力に、どれだけ耐えられるか、あるいは距離を置いて影響を避けられるか、という問題なのです。

そして忘れてはならないのは、本来、コントロール幻想は、より良く生きるためになくてはならないものであるということ。

個人が抱く未来への希望もまた、幻想に過ぎません。しかしそれが実現に値し、生きる意味を与えてくれるものである限り、大切な生きる糧となります。
自分を生かしてくれている、そうした幻想が、果たしてどこから来たか。今、何と結びついているか。よくよく元を辿り、実は破滅的な何かと結びついていないか、何かの圧力によって強要されたものでないか、今一度、省みる必要があるのではないでしょうか。

最後に、「聖フランシスコの平和への祈り」を引用して、この試論を終わりたいと思います。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。



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