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ジオウがジオウであるために。【映画感想】仮面ライダージオウ Over Quartzer

今年の夏の仮面ライダー映画「仮面ライダージオウ Over Quartzer」(以下、OQ)。友人の評価も高くとにかく見てくれとのことで今日見てきました。

流れ的には「昨日の夏コミで久保ユリカさん本が完売御礼となった話」あたりを記事化するのが正しい気がしますが敢えてのジオウ映画に振り切ろうと思います。いいのかこれで、、、

以下壮大なネタバレを含みます。










さて感想ですが、この記事を読んでくれているということでジオウや平成ライダーへの粗い知識がある前提で細かい注釈を省きながら進めます。

尚、私は平成ライダー全てを見ている訳ではありませんが顔(?)と名前は一応一致し、大まかなストーリーは各ライダーわかっているくらいの知識です。通しで見たのはW以降が中心です。

仮面ライダージオウは「平成ライダーのチカラを集めながら進む物語」という毎週日曜日のテレビシリーズのシナリオを軸に進む「いわゆるジオウ」の部分が当然あります。

そして同時に「平成ライダー20周年を記念する存在でありつつ、平成最後の平成ライダー」という文脈、「平成ライダーを概念的に総括するジオウ」という部分もあります。

この2つの要素は常に密接な存在であり、特に区別されるものではないという印象ですが今回は完全に後者を描いた映画だったと言えます。

「平成ライダーを概念的に総括するジオウ」に振り切った本作はテレビシリーズで濃厚に描かれる「平成ライダーのチカラを集めながら進む時空冒険物語」というシナリオに沿った要素は限りなく削られており、究極「テレビ見てなくてもなんとかなる」レベルに仕上がっています。(テレビシリーズはそれはそれで面白いので見よう!)

その代わりに「平成ライダー」と定義される仮面ライダークウガからジオウにつながるライダー達の概念的在り方を徹底的に担いでいます。


感想の前に超ざっくり流れを。

今回悪役はISSA(本当は仮面ライダーバールクスという。ISSA形態とライダー形態があるが便宜上ISSAとまとめます。)を中心としたクォーツァーという一味。彼らは超強烈な動機でジオウ達のまえに立ちはだかります。それが「平成ライダーをやりなおす」というもの。

曰く「平成ライダーは設定や世界観などもバラバラでわかりにくく好かんのできれいにまとめる、ついでに平成の世も同じようになんかスッキリさせるわ」というすごい理由。いままで色んな悪行の動機を目にしたけど「平成ライダーが気に入らない」という理由は初見で、しかもそれを平成ライダーの映画でやるとは流石にビビる、いつのまにかこの記事が「ですます調」じゃなくなってるくらいにはビビる。真顔で言うISSAもISSAだし真顔で受け止めるソウゴくんもソウゴくんだ。

しかも仮面ライダージオウとして頑張るソウゴ君はISSA達の大義に向けた替え玉であり「作られた物語を遂行する駒」だったと告げられる。ここら辺は映画を通じて展開されるメタシナリオの象徴だったりもするので大事と言えば大事なシーン。

まあとにかくクォーツァーは行動を起こし、平成ライダーをやり直す目標に向けて平成をぶっ壊しにかかる、NHKならぬ「平成をぶっ壊す!」だ。その方法はきわめておおざっぱで天空に吸引力の落ちない大きな穴を開けて「平成生まれの存在」だけを吸っていく。マジで物理的に吸っていく。なので30歳未満くらいの若者や乗用車や携帯電話などが吸われていく。むしろ残された昭和組はこのあとどうすれば良いのか。

この後、木梨憲武に会う等とにかく色々あって(後半感想と一緒に書きます)、ジオウは強化フォームになり平成ライダー達と一緒に平成ライダー大集合キックでISSAが防御用にかざした鉄板を「平成」という文字に蹴破り、穴で「平成」と書かれた鉄板を持つ巨大な小渕恵三と化したISSAはついに粉砕されるのでした。めでたしめでたし。

感想1 平成がやばかった件

そう、上記の通りまずやばい。平成をピンポイントで狙う悪役なんて日本にしか生まれないわけで、平成ライダーという概念がいかに強力なものかを思い知らされる。

特に最後巨大化したISSAが平成と書かれた(穴だけど)鉄板を持って負けるシーンは日本映画界に衝撃を与える凄いシーンだったと思う。だってそもそももはや今は令和なわけで平成はもういいよという気持ちにすらなる。まあそれはいい。とにかくすごい。あのシーンだけ見るために劇場に行くだけの価値がある。

あとあんなに「平成」を毛嫌いしていたISSAが「平成」と書かれた鉄板を持ちながら陥落していく様は一種の背徳的なエロスすらあり、平成という概念を竿役にしたNTRと言っても過言ではない。何をいってるか意味不明だが劇場に行けばわかる、頼む行ってくれ。

平成を吸っていくシーンもかなりのエクストリームで、仮面ライダーマッハの剛くんが最初吸われずに佇んでいた時は「こいつ以外とおっさんなのかな」と不安になった。その後吸われそうになって安心した。

そもそも平成を吸い上げて平成(ライダー)をやり直すっていうのが奇天烈でそこだけどうにかしてどうするんだ感がすごい。あと見れば見るほど彼らクォーツァーが気に入らないのは平成ライダーであって平成ではなかろう!と思うのだがそんなことはクォーツァーにとってはどうでも良いのである。平成を丸ごと対象にするとクウガの前にやってたロボコンとかも対象になるけどそんなことどうでも良いのである。

とにかくこの勢いがすばらしく、最後までジェットコースターのように楽しめるのだ。このエンターテイメントさは本当にすごく是非劇場で体験してほしい。

感想2 ジオウとはなんなのかという件

急にそれっぽい見出しである。でもこれが無ければこの映画はただの変な映画で終わってしまう、やはりここに触れないといけないだろう。というかここがメインだ。

この映画は作品を通じて「仮面ライダージオウとは」を問うコンテキストを持っている。

「平成ライダー20作品」を総括する性格を持ち、オールスター作品として時代の節目を盛り上げる。そういった強い外郭の部分を背負って生まれたのがジオウだ。

作中ではその「平成をまとめる」という設定が鋭くジオウ=ソウゴ君に突き刺さる。ジオウの役割=ジオウのシナリオ=ウォズの歴史書という構造により「平成ライダーというこれまでのシリーズをまとめる存在」であるジオウはある意味でマネキン的な存在なのではというネガティブなレッテルを作中で纏うソウゴ君。

「役割としてのジオウをやるためのジオウのシナリオ」というメタな命題は、ともすれば「最後だからオールスターなんでしょ」と割り切ってしまう我々観客へのボールでもある。そんな命題に自問自答するソウゴ君を諭すのがなんと木梨憲武なのである。

木梨憲武扮する仮面ノリダーという懐かしのパロディーコントがここで飛んでくる。やばい、本当にこの映画やばい。

かなり端折って意訳するが木梨は「私と違いお前は本物のライダーだ」と諭すのである。ノリダーが言うと重みが違う、こんなメタ構造があっていいのかという革新的なシーンだ。

ソウゴ君は「役割としてのジオウをやるためのジオウのシナリオ」というメタ文脈と「俺はなんのために戦っていたんだ」というソウゴ君本来の在り方と向き合っていく。

そして自分は王様になりたくて頑張っているんだという、「平成ライダーをまとめる役目のジオウ」ではなく「20作品目の1本の作品内のジオウ」に辿り着き、オーマフォームへと進化する。

正直このくだりは本当に凄いと思った。

クォーツァーによる「平成をまとめてやるぜ」を「倒す」という全体軸がソウゴ君の中の「平成をまとめるというメタであるジオウ」から「自分の目的を見つめ直しジオウがジオウを定義する」という関係性にここでリンクする。

ジオウが「まとめタグ」ではなく「20番目のヒーロー」になった瞬間にまとめ役のシナリオをジオウがついに飛び出し、ISSAが否定した「ばらばらな平成ライダー」のばらばらさがポジティブなものとして最高潮に達する。

オーマフォームになったジオウは「ばらばらでめちゃくちゃな平成ライダーを認める象徴的な存在」=「王」になりかつてのライダー達とISSAを撃破する。

それは平成ライダーを取り巻く色んな評価を全て受け入れつつ「平成ライダーってこういうもんでしょ、みんな違ってみんないい!」と声高に宣言する最高の見せ方だったと思う。


というわけで

ジオウから「平成をまとめるメタタグ」としての性格が消え去る事は無いけど、ジオウが「王様になる」と言い続けジオウの物語を辞めないことでジオウは20番目のライダーになれる。それを平成ライダー全体の肯定とセットで描き切ったOQは本当に良い映画だったなとシンプルに感じました。

そんな素敵なコンテキストを記事では全然触れなかった映画前半部「コント:もしもゲイツが織田信長になったら」パートや「吸引力の落ちない平成を吸う穴」や「平成に寝取られるISSA」などとセットで描ききり、壮大なエンターテイメント作品に昇華させた本作は最高の夏映画です。

さああなたも映画館に行って平成を感じよう!




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