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思弁的アイデンティティ論。真の多様性へ向けて。

(この文章は現代の実存の在り方を伝統的哲学の記述方で記す『実存の溶解』の前段階としての構想メモであり、その論理には依然未熟さがあることを認識しておいてもらわねばならぬ)

反吐が出た。
LGBT理解推進法案、というものが岸田首相肝入りで審議され、明らかに不十分な議論のまま、めまぐるしくも可決された。「差別をなくす」という崇高な御目的があるのだろうが、全くもってつまらない、というか表面的でくだらないもののように見える。そもそも国策としてこういった理解増進を進めることにすら違和感がある。

この違和感はなにか。

この違和感と全く同質のように感じられながら、表面的には対極にありそうに思える違和感がある。

外国人移民、というものに私はあまり良い印象を抱かない。それはすなわち、日本が大和民族の文化に(もちろんアイヌなどの先住民はいるが)他先進国に比べて強く同質化されているというこの国の漠然とした雰囲気が私にそう思わせている。しかし、その一方でたとえばビジネスパートナー、教育の場にいるALTや教授として身近に接する外国人にまで「この国から出ていけ!」とは決して思わない。この矛盾するふたつの感情。ものすごい違和感がここにもある。しかし、やはりこの違和感が「差別をなくす」ときにある違和感と同質のものを孕んでいるような気がしてならない。

この違和感を紐解くためにまず考えるべきは、そもそも多様性とはなにか、ということであろう。実は多くの人が、「多様性」の本義を理解していない。多様性とは、ある概念を含有する要素を群化した"世界"が重複的に多数存在している様子のことである。つまり、属性や個性(アイデンティティ)と言われるようなものが数多ある状態を多様性と表しているのである。
たとえば、学生という属性は小学生や中学生、果ては大学院生まで含有する。その一方で、小学生や中学生という属性自体もまた"世界"であり、重複して存在する。

これは人間独特の高度な抽象化の能力ゆえにもたらされた尊い状態である。すなわち、人間は超社会的動物であるがゆえ、属する最小のコミュニティ単位の全要素を把握するだけでよい動物的存在とは違い、超社会的な存在をも把握しなくてはならない。たとえば、遠く離れた異国の人々のようなそれである。私は文化人類学には決して精通していないが、認識できるコミュニティの範囲というものには少なからず限界があるはずだと考えている。人間はその社会認識の限界を乗り越えるために要素をまとめて抽象化するという営みを行なっている。(と、ここでは考えよう)だから私たちはグローバルな関わりというものができるし、あるいは巨大な超社会の一員として生きることができる。これは人間にしかできぬ営みであり、人間にのみ必要なことであり、あるいは人間らしさの一部でもあろう。それほど"多様性"を構築するための認識は私たち人間の最も重要な部分の一つなのである。

しかし、抽象化を伴う多様性のあり方には大きな問題がある。そして、この問題点こそが私が抱いている"違和感"そのものなのである。

"世界"を通して物事を認識する時、"私"という実存は、客観的に群と群の重なり合いに見出される。つまり、"私"とは無限の集合が重なり合ったある一点である。たとえば、スピノザという人をある人は哲学者として捉えるかもしれないし、また別の人はレンズ職人として捉えるかもしれないし、あるいはまたその両方として捉えるかもしれない。身分に限らず、「スピノザさんは優しい人だ」という認識形式をとるかもしれない。あるいは「エチカを書いた作家である。」という事績をもって表現するかもしれない。しかし、どの認識形式においてもスピノザという人への認識は客観的な社会的属性と内的な心理属性、そして事績を紐づけた表現形式のいずれかを漏れない。この表現形式がアイデンティティである。すなわち、"抽象化"の認識形態のうちで特に実存を認識するときの表現形式がアイデンティティである。

現代における多様性というのは特に「人間の」多様性であるから、その問題の主眼はアイデンティティに置かれなければならない。

実存の表現形式が、アイデンティティの重なり合いによって構成されているということは、ひとつの重要な懸念を生み出す。要素AかつBかつCかつ…と無限にもなるどんなに巨大な数のアイデンティティの部分集合によって実存が表されようと、その重なり合いに見出される部分集合の要素の数が1になるとは決して誰も保証しない。すなわち、常に他者と同質であることの危惧を抱えている。あなたがたとえば「やさしくて、お金持ちで、博学で…」というプロフィールを持っていたところで自分ではそれが唯一無二の自分を表していると思えども、世の中は思う以上に広く、「やさしくて、お金持ちで、博学で…」と言えるような人は自分以外にも数多いる可能性がある、ということだ。

ところで、実存は全アイデンティティの部分集合で表されるわけだが、同時に超アイデンティティ的な部分が実存に含まれる場合も考えられうる。つまりその人にしかあり得ない、誰とも共有することのない要素がある人も当然いるだろう、ということだ。実存がそれ自身を認識し、あるいは客観的な側面から実存の確実性に安堵するためにはこの超アイデンティティ的な部分が必要になる。「我ゆえに我あり」が実存に自然として理解される、ということは非常に複雑なことなのである。(もう一つ、実存を自身で認識する方法がある。すなわち、全アイデンティティの部分集合の要素が自分自身のみであるということが確実な場合である。が、しかしこの場合についての議論はおおかた無理があろう。なぜなら、実存が部分集合で表現されるのは確実な上で、自己侵犯の恐怖が起きているのであって、この方法論は因果が単に逆転しているだけであるからだ。)

このような実存の特徴を鑑みるに、"多様性の現代"というものは大いなる危機を孕んでいる。もう一度確認するが、多様性とはある事物を認識するための群化された表現形式が際限なく拡大し続ける状態である。すなわち、特に人間においてアイデンティティが急加速的に増大する。そのような場合、私たちが実存の確実性の拠り所としていた超アイデンティティ的部分はどうなるだろうか。拡大を止めぬアイデンティティに覆い尽くされるのではないか。実存は"私"から"群れの中の私"に変質し、多様性の言説の下に私たちの唯一無二性は失われていく。私たちは塩水に塩が溶けていることを、なめたり飲んだりして理解することができても、その塩水の入ったコップを見て塩そのものの粒子を肉眼で捉えることはできない。同様に、世界という名の溶媒に溶け込んだ我々の実存はその世界内にあることが確実であっても、それがアイデンティティの世界として認識されることを超える認識が得られることはない。我々の実存は溶解するー多様性という概念が礼賛され続けるかぎり際限なくー。

ここまで「実存は溶解する」という命題を導き、「多様性とはなにか」という問題を考察してきたが、この命題に関しても実は問題がある。それは、この命題が真であったところで倫理的にそのことが果たして人間の進歩を阻害するかどうかまでは示されていないことである。

実存が溶解し、世界と一体化していくことで受益しているような人間ももちろんいよう。たとえばマイノリティがそれである。LGBTQなどのマイノリティの属性はその当事者らの実存がアイデンティティに同化することで我々の認識を力強く得ることができた。少々急進的すぎる気もしないでもないが、現実に世界中においてマイノリティへの配慮とそれを実践するための政策が画策され、実現している。政策の実情に関する研究は未だ多くが途上であろうからエビデンスを示すことはあいにくできないが、マイノリティの人々の多くが少しずつ膠着していたこの世の中が動き出していることを感じることができてきているのではないか。概して、今の多様性というものの社会的な在り方は非常に人類を進歩的に導いているように思えるだろう。

しかし、これは一時的な受益に過ぎないのではないか、とわたしは推測している。もちろん、新しい概念や認識が普遍化することは歴史上決して稀なことではない。そのようなことは成し遂げられるべきだし、種々の概念が受容と普遍化の方向に進む可能性が現時点でも大いにあるだろう。しかし私が言っている受益というのはそのような社会的な側面ばかりではないのである。

ここで、「実存は溶解する」という命題が真だと仮定する。この時、実存はアイデンティティに同化する。もちろん、実存はアイデンティティの無限なる部分集合であるから、あるときはAというアイデンティティで認識されたり、またAかつBかつ Cかつ…という認識を受ける。ここで実存的問題としてアイデンティティとの関係の中に三つの紛争が起こる。ひとつには実存と客観的認識との対立。ふたつには、実存とアイデンティティとの対立。そして、最後にアイデンティティとアイデンティティの対立である。

ひとつめの実存と客観的認識の対立は、アイデンティティと同化した実存がアイデンティティ以外の何者でもない者として一般的に捉えられることによって生じる。先述の通り、アイデンティティは際限なく拡大していき実存の超アイデンティティ的部分を食い潰す。たとえば、自分は美人だと自信だけが先行している"女さん"がいたとしよう。もちろん、彼女にあるのは自信だけであるからいかに自分が美貌に自惚れようとも、客観的には人並みか、人並み以下の酷い顔つきなのである。もちろん、中には彼女を美しいというアイデンティティの中で見なすかもしれない。しかし、客観的認識というのは最も単純化した表現で言うならば民主主義的なプロセスによって決定された見解のことであるから、彼女を"ブス"とみなす人がマジョリティである限り彼女への客観的認識は"ブス"に他ならない。そこに実存の危機が訪れる。アイデンティティに同化した私にとって、"美人"なのか"ブス"なのかという二つのアイデンティティの対立は実存と世間との対立になってしまう。彼女にとって自分とは、言葉で示すことのできるアイデンティティなのであるからには客観的認識との齟齬というものは自己否定に他ならない。この齟齬にものすごいフラストレーションがかかっている。であるからに、例えば"インスタ女子"と言われるような人は現実的にはペヤングを昼飯に食っているかもしれないものの、毎朝スムージーとオートミールを食べている画像をあげている姿を見て、世間が見ている自分の姿を見ることで安心しようとする。SNSによって知り得るはずのなかった客観的認識を自分で操作することができるようになった点は齟齬のフラストレーションを低減させることに成功している。一方で、それは根本的な解決にはなっておらず依然として知り得ぬ客観的認識への不安は残り続けている。(SNSの発現と発展は多様性の概念と大きな関わりがあることはこのことでもしっかりわかるだろうが、これは本稿の問題ではないので別稿にて思索しようと思う。)

次に実存とアイデンティティの対立について、である。実存は拡大するアイデンティティによってアイデンティティに同化させられるわけだが、その状況は次のように言い換えることができる。すなわち超アイデンティティ的な部分を無理やりにでも一般概念的なアイデンティティの枠に近似させる、ということだ。たとえば、あなたが地元の優秀な進学校の高校生だったとしよう。あるとき、ふと時間潰しに重厚な駅前の喫茶店に入ったところマスターから入店お断り、とコーヒー1杯にもありつけず締め出されてしまう。理由を聞けば、以前"高校生"が騒いで常連たちから不評を買ってからと言うものの退店を拒否しているのだと言う。推するに「高校生」とは確実に自分とは違う、近隣の工業校生のことをさし示していた、としよう。この時、あなたは葛藤する。すなわち、自分は高校生というアイデンティティで括られているけれども、現実には進学校の自分と工業校生の不良なぞは全くもって違うからである。この例えから得られることは、つまりアイデンティティの内容は包括的なものであって、全てを囲いきれていない。しかし、アイデンティティに実存が同化するのだから近似してでもー無理やりに実存に受容させてーその人の持つ超アイデンティティ的部分をアイデンティティの観念が囲い込もうとするのである。そこにまたフラストレーションがかかる。現代はそのフラストレーションに対して、逆に多様化を進めるという方法を提示している。しかし、もちろん多様化が招いたこの危機的状況が良化するわけもない。毒はいくら飲んでも毒のままである。アイデンティティとの齟齬をきたした実存を要素として新たな分派的アイデンティティが発生したとしても無限に齟齬が生じていく。

最後のアイデンティティとアイデンティティの対立は至極簡単な話である。アイデンティティとアイデンティティの対立、と言う時もちろんそこには先に述べたようなアイデンティティの内部対立の延長としてのものがあることをまず言わなければならない。たとえば、もとは同じアタナシウス派だったのにもかかわらず、カトリックとプロテスタントは内部対立や自己批判から分離したアイデンティティであると同時に、三十年戦争をはじめとして無数の人命を土に帰すような争いを繰り広げた。もちろん、キリスト教のこの二派の話に限らず、宗教的な対立や新宗教の勃興には少なからずアイデンティティを基因として抱えている。その一方このような、内部対立を外部化したとも言える対立の多くは時間はかかれど歴史的には和解し、現代には少なくとも表面的には見られなくなっているものも多い。であるから、アイデンティティ間の対立において主眼に置くのはこの外化した内的対立ではない。

(しかしながら、いずれこの種のアイデンティティ間の対立が顕在化する、ということだけはここで示しておこうと思う。今ある世界というものが第n次レジームだと仮定する。幾数年前からあるいは数百年前から始まったこのレジームはn-1次からn次への移行の瞬間無限なる齟齬を孕む。たとえばそれは宗教戦争であり、あるいはテレワークと出社の併用勤務であり、あるいは今日の晩ご飯を何にするのかという脳内論争でもある。レジームは必ずしも画一的に流動するものではない。しかし、ある大きな事柄、全人類共通的に共鳴し合う事柄においてはレジームは世界史的に駆動する。国連でSDGsが採択された、新型コロナでWHOが緊急事態を宣言した、全てが世界史を大きく揺さぶる事象である。グローバル化が進んだこの現代において、世界史的な駆動は指数関数的増大の様相を呈している。SDGsは新たなアイデンティティを積極的に増幅した、と漠然的な言い方をした時にそこに現れたのは単にアイデンティティの多様性であるだけでなく、一方では人間と人間の対立が同時に生まれているということは今を生きる者ならば誰しもがすんなり理解できることだろう。今、この時代はまさしく旧レジームにおきる齟齬が鎮静化し、新たな齟齬が次々と生まれ出している時代なのである。これらが我々の目に如実に見えてくる、あるいはもう見えてきているのかもしれない。そして、それは間違いなくより巨大化し、実存的危機のみならず根源的な生命の危機さえ及ぼすことをここに予告しておきたい。)

さて、もっとも大事なのは外的対立である。ナショナリズムを例えにしよう。国民というアイデンティティは内的対立の中で生まれたものもある一方でアメリカとソ連のようなまったくその由来に無関係な二カ国が内的対立を介さずにアイデンティティとして対立することがある。ナショナリズムは形成「される」ものではなく、形成「する」ものであるからには、このような対立には恣意的なものがある。一方でこのような対立はイデオロギーやプロパガンダのような粗雑で抽象的な論理によって形成されるため、領土問題や宗教的議論などわかりやすい解決路が見出しにくく袋小路に入ってしまいやすい。複雑化しやすいのである。もちろん、ナショナリズムだけでない。学校の教室で陰キャグループが陽キャグループに迫害されることも同様である。中学生の論理は基本的にとても粗雑だからだ。くさい、とかきもちわるいとかそういう粗雑な論理で勃発するアイデンティティの対立というものは複雑化しやすいことは理解いただけるだろう。(ここには国家的イデオロギー対立が中学生のいじめと変わらないことを示唆している皮肉はないつもりではある。)

この通り、そもそも今のアイデンティティの多様性の在り方自体によってさまざまな対立が起き、それが人を殺している。少し前のryuchel氏の自殺という事件さえもこの例に漏れない。今、我々の目の前では多様性によって私服を肥やす輩がいる一方で、多様性によって殺される人が後を絶たない。構造としての多様性には大きく問題があることがわかるだろう。そこで、私はこのアイデンティティの多様性の在り方という問題に対して、思弁的実在論の思考法を導入するべきだと考える。

思弁的実在論とは、構造主義的な認識に対して、形而上学的な認識を同時並列的に扱うといつ意味の論である。たとえば、構造主義においてはリンゴという事物は床に置かれていたり、部屋の中にあったり、あるいは生産者がいて、消費者がいたり、という「構造」において認識される。もっとわかりやすく言えば、「あなた」というのはそもそも「あなた」ではなくて「どこどこで生まれた、なんとかという小学校を出ていて、勤め先はどこで、配偶者は誰で、…etcあなた」という「構造」において認識する。一方、形而上学的な認識では、リンゴという事物を構造で認識せずに、「リンゴ」をそもそも自明な存在として扱う。一見構造主義と形而上学的認識は並列不可能のように見えるが、ことアイデンティティにおいてこれは十分に可能であると考えられる。

冒頭で述べたように、アイデンティティあるいは抽象化の能力は人間固有のかけがえのない能力であり、人間が人類の総体性や地球規模の認識を持つには欠かせない能力だと言った。これはその通りである。だから、これまでのように、人間をアイデンティティという「構造」として捉えることは続けなければいけない。一方で、今のアイデンティティ多様性には深刻な問題点が幾つかある。それを解決するために、アイデンティティ構造を取っ払い、人間を形而上学的に認識する必要性がある。すなわち、超アイデンティティ的部分をアイデンティティ化することなく、他者を認識するという方法である。

そのためにはまず、形而上学的な人間の定義が現代的により発展する必要がある。つまり、アイデンティティとして人間を捉えてきたが、そもそも人間とはなにか、我々がいま現代において有しているコモンズはなにか、という問いを通して、次の時代に向けて人文学が認識を形成していかなければならない。このためには、諸分野が一致団結して21世紀ルネサンスを起こすことが必ず必要になるであろう。

もうひとつには、実践的なアイデンティティ論の発展が必要であろう。今、提案した思弁的アイデンティティ論(仮)においても実践性が保証されていない。人文学においても認識の形成などといった社会に及ぼす影響は多分にあるはずであるが、一般に実践性の乏しさばかりを指摘されるあまり、哲学をはじめとする人文の諸分野はまったくもって実践性に対して注意や考慮を払うことがなくなっている。これは人文学の怠惰である。社会との関わりのなかでこの理論が具体的にどのような効用を及ぼすのかという人文学の社会学が必要になるであろう。

さて、ここまで現代の多様性のあり方を考察し、その問題点をあげ、最後には簡略的にそれに対する方法論を提示した。あなたは多様性をどう考えるか、人間の多様性が真の形で全ての人類にとって良い形になるには我々はもっと深い洞察をしなくてはならない。私の違和感は、洞察もなしに実践ばかり進めようとする、今の多様性の在り方の脳筋っぷりである。一度立ち止まってもっと冷静に緻密に思考するべきである。税金や年金の話は、少数者や貧民への配慮が大きいのに、こと社会的な多様性の話になると全体利益ばかりが先行してそれによる不利益が議論されない。政治家のみならず市井の民においても、である。我々は一度そのような姿勢というものを考え直さなければならないのではないか。

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