とふゐ

いま、プロフィールを読むところの君とは何か。 あるいはその周りのそれとは何か。 哲学の…

とふゐ

いま、プロフィールを読むところの君とは何か。 あるいはその周りのそれとは何か。 哲学の深淵は”哲学する”こと。 活きた思考の深淵を共有する哲学エッセイ。

最近の記事

浪人淡々譚

浪人、と口ずさんでみる。 嫌な気持ちはしない。むしろリズミックな言いやすさがある。 「〇〇さん家のあの子、浪人するみたいよ」という井戸端会議のセリフであっても"浪人"の響きに緊張感はない。しかし、それでも現役の受験生にとってみれば、この言葉はレクイエムに等しいのも同然だろう。昨今の"現役志向"(つまり、浪人せずにどこでもいいからとりあえず大学に入っちゃおうの精神)の高まりは浪人のハードルを大きく上げている。 先日、友人3人とハンバーグを食べに行った。決して3人でいて疲れるよ

    • 絶望の国の絶望の若者たちへ〜プロローグ〜

      2023年3月1日、とある式典の壇上において私の放った言葉である。 絶望。 この言葉が静謐な広々とした会場に充満したときの感情というものはなんとも言い表し難いものであった。なにか悦に入ったような不思議な感覚がそこにはあった。しかし私がこの言葉に込めた思いは、決して単なる自己陶酔やレトリックではない。あの瞬間私は大いに真面目だったのである。これから新しい道へと行く多くの若人を前にして、希望とは正反対の「絶望」という言葉を選択したことは多くの聴衆にとって意表を突いたものだった

      • 『SICK OF MYSELF』論考〜他者と差異の観点から〜

        映画館から出た私は、笑っていた。 ブラックユーモアと、悲劇的な結末を主軸とする映画にもかかわらず私の顔には笑みがあったのだ。劇中、衆愚な画像と人間の在り方に嫌というほど眉間にしわを寄せた。だが、映画の余韻が充満した"スクリーン2"から出た私は笑みに溢れていた。 この笑いはいったい何から来るのか、面白さなのか、意味のわからなさなのか、あるいは圧倒されきってしまったからなのか。すぐには理解することはできなかった。ただ確実なのは、私が熱狂し、興奮したことだけである。ストラヴィン

        • 次の投稿は「ルッキズム」をテーマにしたいと思います。結論から言えば、私はルッキズムが美的実在論の立場から語れることはないと思うし、そこに道徳的事実はないと思うのです。

        浪人淡々譚

        • 絶望の国の絶望の若者たちへ〜プロローグ〜

        • 『SICK OF MYSELF』論考〜他者と差異の観点から〜

        • 次の投稿は「ルッキズム」をテーマにしたいと思います。結論から言えば、私はルッキズムが美的実在論の立場から語れることはないと思うし、そこに道徳的事実はないと思うのです。

          戦争と命のかがやき。

          「語弊があるかもしれないんだけどさ、」 令和5年八月某日、夜も深まったファミレス、クーラー直下の席。まさしく、資本主義的で頽落的な文明に四方八方を包囲されたこの場所で飛び出たのは衝撃の一言であった。 「いま日本に生きる私たちよりも戦前戦時中の日本人のほうが美しかったんじゃないかなって。」 もちろん、この言葉には文脈がある。というのも、それは現代美術というものが方向性を失い路頭に迷っていることへの議論の中で出た言葉であったからだ。 太平洋戦争へと突入していくあの混乱と破

          戦争と命のかがやき。

          新作、かなり真面目に書いたので読んでいただければ嬉しく思います。

          新作、かなり真面目に書いたので読んでいただければ嬉しく思います。

          思弁的アイデンティティ論。真の多様性へ向けて。

          (この文章は現代の実存の在り方を伝統的哲学の記述方で記す『実存の溶解』の前段階としての構想メモであり、その論理には依然未熟さがあることを認識しておいてもらわねばならぬ) 反吐が出た。 LGBT理解推進法案、というものが岸田首相肝入りで審議され、明らかに不十分な議論のまま、めまぐるしくも可決された。「差別をなくす」という崇高な御目的があるのだろうが、全くもってつまらない、というか表面的でくだらないもののように見える。そもそも国策としてこういった理解増進を進めることにすら違和感

          思弁的アイデンティティ論。真の多様性へ向けて。

          天才の非情さ。あるいは凡人の超えられないなにか。〜エゴン・シーレ展評〜

          年が明けてから東京都美術館にて開催してきた『レオポルト美術館 エゴン・シーレ展〜ウィーンが生んだ若き天才〜』も4月9日に会期末を控え、いよいよ後半戦というところに差し掛かってきた。開幕直後のごった返す人と、異様な熱気のようなものはそれはそれでいいのだが、鑑賞の目を狂わすものがあるので、なるべく開幕してすぐに展覧会に赴くことは控えている。今回もその通りに、会期末が近づいた頃合いを見て訪れたのだが、さすがに天才エゴン・シーレ、いかにも教養を匂わせた老夫婦から絵画という言葉さえも知

          天才の非情さ。あるいは凡人の超えられないなにか。〜エゴン・シーレ展評〜

          ディズニーランドはなぜ楽しいのか

          「ディズニー行きたーい!」 艶やかな丸みを帯びた高い声でこんなことを言う者を一週間に1人は見ている気がする。殊に、この感染症時代の今においては人々の旅行欲も高まるところまで高まっているからこのような言説をひどく耳にしているのかもしれない。    ディズニー、というのは皆さんご存知「東京ディズニーランド」である。東京と言いながら千葉の浦和にある『正確には「浦和ディズニーランド」』とか揶揄されがちなあの夢の国である。広さはバチカン市国とほとんど同一で、広大な面積を誇っている。広い

          ディズニーランドはなぜ楽しいのか

          死を恐れるということ。

          随分前の話だが、私が個人的に開設している質問箱にこんな質問が舞い込んできた。 「始まりがあれば終わりはある。僕たちが生きているということは始まりがあって必ず終わりがあるから。その事実は変えられません。僕は終わりのことを考えたら怖いです。確実に無にならないこの生というものにずっとしがみついていたいです。貴方はこれについてどう思いますか?」 これは非常に巨大で漠然とした難しい問題である。しかしながら,生きとし生けるものの必然的な思考でもある。 現世からの解脱は間違いなく訪れる

          死を恐れるということ。

          『未読の哲学』 〜実存的観点からの現代的再考〜

          現代というものを定義するときに、さてそれはどこからが現代と言えるだろうか。 近代は個人主義の時代であった。デカルトが「我思う、ゆえに我あり。」と言ったことが近代という時代を世界史から分節化し、駆動させた。近代は個人というものの実在を疑わない。いま、ここにアプリオリな自己というものがいて、それは認識の範疇にあるということが自明である。そんな条件の下に、近代は展開した。 であるから、近代の関心というものは自己に対しての他者であった。それは他人というよりかは、広く全ての外在物を

          『未読の哲学』 〜実存的観点からの現代的再考〜

          倫理西洋思想期末考査

          さて、この問題が皆さんに解けるでしょうか。 西洋思想分野(ルネサンス〜実存主義の最初まで)を範囲にしています。ルネサンスの出題はありませんし、範囲外の中国思想からも一問だしてるので少し総合的な力がいるかもしれません。 解答は9/14までに掲載します。 解答を送ってくださっても結構です。 まだ私も模範解答を作っていません笑

          倫理西洋思想期末考査

          "気づいたこと"に気づいたこと

          まずは、これを読んでいただきたい。 小学校の卒業文集。それは不完全で、未熟な文の延々なる羅列。親の目線から見れば、可愛いものなのかもしれないが、書いた当の本人からすれば後々には黒歴史地味たものでしかなくなるのであろう。この卒業文集もその例に漏れない。ほとんどのページに渡って書かれているものは、修学旅行にて「〜に行った、たのしかった。」とか学芸会で「〜の役をやった、団結が強まった。」、あるいは将来「〜になりたい、中学ではこんなことを頑張る」というような紋切り型がつらつらと続く

          "気づいたこと"に気づいたこと

          花火〜叫び嘆き感ず内気な日本人〜

          煌々と光る白熱灯に群がる蛾のようだな。 ー 一目して思ったのはそれであった ー 七月も下旬になり、夏の終わりがこちらに手招きし始めたような、けれどもその手招きさえも暑さにかき消されてしまっているような、そんな一日。久しく、"夏祭り"というものには行っていなかったのだが、ひょんなことから隣町の港まつりに出向くことになった。 というのもそれはとにもかくにも花火であった。行くという日、その日に花火が打ち上げられる。そのことひとつをもってして私は、そうひょいひょいと行く気もなかっ

          花火〜叫び嘆き感ず内気な日本人〜

          普通って。

          普通。 普通な夕食、普通な会話、普通な授業、普通な声、普通な人間、普通な日常。 「普通」は我々の身の回りに溢れている。そしてまた、反証的論理としての「普通」も溢れている。 例えば、「アイツは普通じゃない」とか 「普段よりも劣った成績」などである。 いずれにしろ、我々は「普通」という価値観をもとにして、判断を下すことが多い。しかし、我々は「普通とは何か」を 問われた時に答えられない。説明不可能な概念を恒常的に多用しているのはなんだか気持ち悪いものだ。どんな事象にも本質は

          普通って。

          今日、明日、明後日、明々後日も私はデカダンス。あなたもデカダンス。

          11時に起きた。 1日が始まって11時間後、大変なデカダンス。 梶井も芥川もびっくりなデカダンス生活を繰り広げてしまっているここ最近のワタクシ。波一通りの感覚かもしれないが、やはり1日が短く感じられる。 デカダンスというのは怠惰なことを美化しているだけのように思えるかもしれないけれども、案外悪いものではない。というか、世の中みんなデカダンスになってしまえばいいのに。それはそうで困るのだけれども。 ただ、世の中皆デカダンス論というのもなんとなくの風来坊的構想によって導き出し

          今日、明日、明後日、明々後日も私はデカダンス。あなたもデカダンス。