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四軒長屋(1) 父と母

米雄ときくい


 わたしは、昭和23年(1948)5月1日、富山県立山町五百石で父米雄(旧姓高城・大正10年生まれ)、母きくい(旧姓中川・同13年生まれ)の次女として、生まれた。

 ものごころがついた頃は、滑川の借家で暮らした。やがて父が商売替えをして、富山市へ移った。
 もともとは不二越が所有していたという四軒長屋の一軒を、安く買い取ったのだ。戦前からの建物で、当時でも相当古く感じたものだ。

 わたしが生まれ育った富山県は、チューリップの生産県として有名で、5月を迎える頃にもなると、県内各地に、さまざまな色に咲き誇るチューリップが見られる。

 チューリップの花は咲くと同時に、茎の先端から切り落とされる。球根を大きくするため、必要だと聞くが、畑に散らばる切断された花冠を見ると、あわれでならない。
 母のふるさと滑川市でも、県道沿いにはチューリップ畑が広がっている。

 父・米雄は、富山県中新川郡立山町の出身である。
 町の中心地、五百石にある地主・高城家の三男だった。
 この家系は、早くに亡くなる人が多く、父本人は、70歳まで生きたが「良くここまで生きられたものだ」
 と、折々、語っていた。

 老いる前の父・米雄は、中肉中背ながら、がっしりとした体つきだった。浅黒い肌にはっきりした目鼻立ちで、顔の中心には高々と鷲鼻があった。
 一見、怖そうに見えるかもしれないが、仕事の才覚に富む一方で、打算がなく、豪放磊落、男気のある人だった。
  米雄を慕う友人知人は多かった。
 男が惚れる男とは、米雄のような人を言うのだろう。

 米雄の幼少時は、神童と呼ばれるほど、学業成績がよかったが、三男ということもあってか、当時は、家族の誰も中学進学の話をしなかった。子どもごころに、手に職をつけて、お金を貯めようと思った米雄は、高等小学校卒業後は、塗り物の職人の道へと進んだ。

 母・きくいは、滑川市の大きな米穀店に生まれ育った。
 背丈が低いのに健たん家でよく食べるので、恰幅のある太った人だった。
 子どものころから体がよく動く娘で、親の商う米穀店の手伝いを、みずから進んでしたという。

 きくいも、上級学校には進まずに、当時の多くの婦女子がしたように、町の和裁所に和裁を習いにいった。
 もともと器用だったのか、すぐに腕を上げ、まだ若いのに、針子として名指しで注文を取るまでになった。
 それが、ほかのお針子のやっかみをかった。和裁所では、注文のあった布地と同じ色の糸を、同僚に隠されるという出来事があった。
 きくいは仕方なく布とは違う色の糸で、着物を縫うことにした。 やがてきくいが細かく丁寧に縫いあげた着物は、布の表地から糸目が見えることがなく、お客様は、美しく仕立てた着物に満足して、持ち帰ったということだ。
 いじわるをしたお針子たちは、歯がみしてくやしがったことだろう。

 能力が高く、さばさばした気性の母は、悪気はないのだが、言わなくてもいいことまで口にする質だった。そんなことも同僚たちの不評をかったに違いない。
 きくいの物言いに、娘のわたしも、何度も傷つき、腹を立てたものだ。

両もらいの夫婦


 父・米雄と母きくいの結婚は、いわゆる「両もらい」の養子縁組だった。米雄ときくいは、連れ添ったのちは、叔母ハルの嫁ぎ先の姓である「藤井」を名乗った。
 藤井家は、名古屋駅前で大きな仏壇店を営んでいた。ところが、戦時中、叔母が実家のある立山町へ疎開している間に、出征した夫と息子が立て続けて亡くなった。身寄りのない叔母ハルは、しばらく実家の高城家に身をよせた。米雄は、そんな叔母の面倒を見ようと考えた。

 ハルは隣家の旅館の娘を、米雄の妻に、と考えたが、当時旅館は水商売だということで、高城家の長男がそれを許さず、滑川の米穀店の娘である、きくいを嫁として、養子縁組したのだった。

 叔母、米雄、きくいの三人家族は、実家を出て、同じ立山町五百石の、あかの他人の家の二階を借りて移り住んだ。家主は性格のきつい人で、いつもきつい顔をしていて、きつい顔をしたまま亡くなった。

 新居の部屋は狭かったが、叔母は藤井の家から、立派な仏壇と、見事な木彫の仏像を運び込んだ。

 叔母は若夫婦に
「この仏像はどんな貧乏をしても、けっして売ったりせずに、手元に置くように」
 と、言った。この仏壇と仏像はその後も家宝として、わたしたち家族とともに引っ越しを繰り返すことになる。

 米雄ときくい夫婦の間に、初めての子どもが生まれた。姉、佳美である。佳美の命名に、米雄は、辞書をひもときながら悩んだようだ。
 ところが2番目の赤ん坊であるわたしが生まれた時は、「また女か」と言い捨てて、海へ釣りに出掛けてしまった。

 次女の命名に熱心ではない米雄の様子を見て、叔母は、
「幸薄い子どもにならないよう、せめて名前だけでも」
と言って、わたしに「幸子」という名前をつけてくれた。
 そんな叔母であったが、その後まもなく亡くなった。
 叔母の顔はぼんやりとしか覚えていない。

 さて、ペンキ職人となった米雄は、妻とふたりの子どもをかかえながらも、時代の節目であったせいか、ほとんど仕事の注文が入らなかった。
 雨が降れば、ますます仕事にならず、外へ出かけることもなく、長雨になると、昼から酒を飲んで暮らすという、自堕落な生活を送っていた。

 そんな話を耳にして心配になったのだろう。
 きくいの父が、夫婦の様子を見に来ると、泥酔していた米雄は、不機嫌になって、自分の舅に向かって、手にした盃を投げつけたのだった。

 「このままでは、この男はダメになってしまう」
 きくいの父は、米雄に就職の世話をすることにした。
 それは、自分の営む米穀店とも関わりをもつ会社で、自分たちの近くに住まわせれば、一家の暮らしをそれとなく目配りできると考えたのかもしれない。

 米雄ときくいは、その話を頼ることにした。滑川市内で部屋を借りると、大八車に荷物を載せて、立山町から移り住んだのだった。

(写真はイメージです)

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