Sachiko

高校1年生の夏休み、アルバイト先での事故で、利き手であった右指3本を切り落としました。…

Sachiko

高校1年生の夏休み、アルバイト先での事故で、利き手であった右指3本を切り落としました。それまでわがままいっぱいに育ってきた私の、波乱万丈な人生が始まりました。週1回の更新を目標にしています。noteははじめてなのでわからないことだらけ。ご教示、応援おねがいします。

最近の記事

浮世渡らば豆腐で渡れ(5) 姉妹の暮らし

姉いもうと   わたしはからだが小さく弱かったが、癇癪持ちで気は強かった。  幼いころ、父が買ってきてくれたミルク飲み人形が気に入らないといって、「こんなのほしくなかった」と、地団駄を踏んであばれたこともある。  学校で使うお道具を探していたときなどは、忙しくしている母に横柄な態度を取って、父から横っ面を張り倒されたこともある。父は店の土間で豆腐を作っていたが、長靴を履いたままの土足で畳の仏間に駆け上がってきた。だが、父が手をあげたといえば、そのときぐらいだろうか。  姉の

    • 浮世渡らば豆腐で渡れ(4)  家は広かれ、心も広かれ

       父、増築を決める   一年もたつと、豆腐屋の商売は少しずつ軌道に乗っていった。そんな中での長屋暮らしは、個性あふれる近所の住人たちに囲まれ、まれに珍妙な出来事に遭遇した。  ある日、長屋の小さな庭で、父が丹念に育てていた盆栽が、いつの間にか見えなくなり、家族で探し回ることがあった。しばらくすると、なくなったものと同じ盆栽が、ご近所の、とある家の下駄箱の上に載っていたと言って、母が驚いて帰ってきた。 さほど親しい人でもなく、父が進呈するわけもなく、盆栽がひとりで歩いていくは

      • 浮世渡らば豆腐で渡れ(3) わが家の暮らし

        わが家の暮らし もちはもち屋、豆腐は豆腐屋で  波乱万丈なすべり出しの藤井豆腐店だったが、ご贔屓のみなさんや、京田さんのような人徳者の助けもあって、その後は、ほぼ順調に、軌道に乗っていった。  藤井の豆腐は、一度食べれば味の良さが分かり、お客さんからは何度でも買ってもらえた。いまも当時も、東富山は大企業の工場が近くにあり、わが家が売店に納入することもあれば、勤め帰りのお客さんが立ち寄ってくれることもあり、次第にお得意さんは増えていった。  だが、たった一丁の豆腐といえ

        • 浮世渡らば豆腐で渡れ(2) 恩人と盗人

          恩人と盗人 父、駆ける 
  大豆屋のおじさんが集金せずに帰っていくと、父は狸寝入りしていた布団から、ガバッと跳ね起き、身支度もそこそこに店を飛び出した。  その日は土曜日、午後からは銀行も休みだ。急がねばならない。  父は駆け回った。  銀行からお金を借りるには保証人が必要だ。しかし滑川から越してきたばかりの、開業して三月も経たない無名の父の、保証人に誰がなるというのか。 
  それでも父は、男が男に惚れると言われた男だった。  有難いことに、すぐさま知恵を貸してくれる人

        浮世渡らば豆腐で渡れ(5) 姉妹の暮らし

          浮世渡らば豆腐で渡れ(1)   藤井豆腐店の1日

          豆腐の仕込みは重労働 豆腐屋の仕事は、朝早く始まる。 開業当初、父と母は、午前2時には、寝床から起き出していたものだ。 年月がめぐり、豆腐づくりの機械で作業の手間を省けるようになると、ふたりの起床時間は、午前3時、そして4時へと遅くなりはしたものの、朝から晩まで働き詰めなのは、引退するまで変わらなかった。 夜明け前から、それぞれ仕事を分担し、開店に備えた。豆腐づくりは、もっぱら父の役割。そのほかの作業が母の役割だった。 早朝、父は、豆腐のもととなる豆乳を作りだす。 ゆう

          浮世渡らば豆腐で渡れ(1)   藤井豆腐店の1日

          四軒長屋(4)  路地裏の学び舎

          赤ワインがおくすり  6歳の春、わたしは小学校へあがった。  東富山町の自宅から、海に向かって15分ほど歩くと、わたしの通う大広田小学校があった。2学年上には姉がいたので、なかよく一緒に通った。  姉は、滑川から転校してきて、友だちもできない早々のうちに、家が豆腐店だとどうして知られたのか、  「豆腐(とっぺ)くさい」 と同級生から、いじめられていたようだった。  おっとりとして心の優しい姉は、それに歯向かうこともせず、残酷な子どもたち、そして時には、大人からの格好のター

          四軒長屋(4)  路地裏の学び舎

          四軒長屋(3) 東富山の家

          高度成長の富山市へ  富山湾沿岸とほぼ並行に東西に走る「あいの風とやま鉄道」。  かつてはこの鉄路を、北陸本線の列車が通っていた。  いまも、沿線には、昭和レトロと言っていいような、木造の駅舎が残っている。  富山駅の東隣りにある、東富山駅もそのうちのひとつだ。  東富山駅があるあたりは、東富山寿町。みんな昔から「東富山町」と呼んでいた。  父と母、2歳上の姉・佳美、5歳下の弟・稔、そしてわたし。  藤井家の一家5人が、滑川を後にして、東富山町に越したのは昭和30年だった。

          四軒長屋(3) 東富山の家

          四軒長屋(2) 父、会社員への転身

          工場とパチンコ  立山町から滑川市へ引っ越したわたしたちは、その後、父が勤める会社の社宅に住まいを移した。末っ子の弟が生まれたのもこのころだ。  伊達なペンキ職人から、一般企業の工場勤務へ。  洋服を着て仕事に通う父も、幼いわたしの目には、だれよりも男らしく格好良く映った。  会社での父は、仕事の業績がかなり高く、上司や客先から頼りにされ、同僚たちからも大いに慕われていたようだ。周囲から将来を嘱望され、労働組合の委員長に選出されたのも、こうした人望があってのことだろう。

          四軒長屋(2) 父、会社員への転身

          四軒長屋(1) 父と母

          米雄ときくい  わたしは、昭和23年(1948)5月1日、富山県立山町五百石で父米雄(旧姓高城・大正10年生まれ)、母きくい(旧姓中川・同13年生まれ)の次女として、生まれた。  ものごころがついた頃は、滑川の借家で暮らした。やがて父が商売替えをして、富山市へ移った。  もともとは不二越が所有していたという四軒長屋の一軒を、安く買い取ったのだ。戦前からの建物で、当時でも相当古く感じたものだ。  わたしが生まれ育った富山県は、チューリップの生産県として有名で、5月を迎える

          四軒長屋(1) 父と母

          プロローグ

          事故 「機械止めて!」  あっ、と思うひまもなかった。  とてつもなく強い力で、機械が、わたしの右手を引きずり込んだ。  それと同時に、指先の感覚がすべて消えてしまった。  わたし以外、何が起こっているのか誰もわからなかった。  理解したあとは、気が動転したのか、何もしようとしなかった。  誰もが呆然としてその場を動かなかった。 「建屋の外のスイッチを切って!」 悲鳴に近い声で叫んだ。 正気に戻ったバイト仲間が、外に向かって駆け出した。 高校一年生の夏休みだった。 わ

          プロローグ