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繰り返し考える

同僚が亡くなった。
突然のことだった。

上司がみんなを集め、淡々と話し始めた。えっと声をあげる人、うつむく人、静かな中で誰もが動揺しているのが分かった。私は実感がわかない。同じ部署とはいえ、その方と直接関わる仕事が少なく、関係の薄い人だったからかもしれない。

ご葬儀はご家族のみで行うなど、上司の話は数分で終わり、黙祷をした。
その後は引き継ぎなど業務の話が続き、帰らねばならない時間が来たので私は席を立った。
こんな時、他の同僚と話すことができたら驚きや悲しみに向き合えるのかもしれないが、気持ちに折り合いをつけることもできず自転車に乗った。

帰りながらその人のことを考えた。
あまり仕事を休まない人だと聞いていた。同じ部署でもそのくらいしか知らない。私生活など知る由もない。確か私よりお若い方である。

もし私が死んだとしても淡々とした報告の後、周りは仕事の引き継ぎに追われるのだろうと考えた。親しい同僚は少しは惜しんでくれるだろうか。いや、遺された方はこれからやるべきことがある。やはり淡々と仕事を終わらせて行くのだろう。

私が死んでも、他の誰かが私の仕事をする。
少しは悲しんでくれるかもしれないけれど、私の死を脇において淡々と仕事をする。
誰でもそれは変わらない。

虚しくなった。


帰宅後、娘達と三人でお風呂に入った。
娘達はこの頃流行っているアニメが観たいと話す。確か子供向けでなかったと思う。なぜ子供向けではないのかはわからない。残虐な描写があるからか、性的な描写があるからかと考えていたら「○○ちゃんは観たって」と小2の次女が言った。
あらすじを語りだしたのは小6である。原作の漫画の内容を友達から聞いた長女は「なんかね、殺されちゃうんだって」と話した。
「酷い殺され方だから大人向けなのかな」と私。
「違うみたい。そんなに怖い場面はないって」と長女。

あらすじも知っているし、過激な描写もないから観たいと言いたいらしい。

そのやりとりを聞いていた次女が得意げに口を挟んだ。
「怖い場面なかったって私も聞いたよ」

だんだん分からなくなってきた。
子供が観ても良いかどうか(親としての私の判断)の基準が分からない。
人が死んだり殺されたりする作品は観せるべきではないのか。残虐な描写でないなら良いのか、友達も観ているなら良いのか。
本音を言えば私もその作品が気になっていたから、観てみたかったし原作も読みたかった。特に過激な描写がないなら、みんなで観ようと普段なら思ったはずだ。

けれど、先ほど同僚の訃報を聞いてから、私は気持ちの穴が塞がらない。
特に親しいわけでもなくただ同じ部署というだけで、名字は知っていても下の名前を正しく言えるかさえ自信のない同僚のことをずっと考えている。

しかし、同僚のことより明日からの仕事の引き継ぎに関心が移らざるを得ない。そんな風に人の命を軽く扱う自分に対して憤り、それでも私が亡くなっても同じだと納得する。だからといって割り切れず、堂々巡りしている。

娘達は別の話題に移ったのに、私は涙がボロボロこぼれ、そっぽを向いてごまかした。
涙が止まらないので、娘達にどうしたのと声をかけられ「今日、お母さんの会社の人が亡くなってね」と話した。

その人は誰にでも敬語を話す人で、良い人のようだった。「のようだった」と言うくらい私はその人のことを知らなかった。
親しくはない人の訃報に、やみくもに悲しむのも悪い気がするし、悲しまないのも悪い気がする。淡々としている自分がすごく冷たい人間に思える。

「殺される場面がなくても、その場で見ていなくても、人が亡くなるってこんな感じだよ」と嗚咽した。
異様な私に娘二人は戸惑っていたが、構うもんかとそのまま泣いた。

次の日、出勤したらその同僚のことを話す人はそれほどいなかった。引き継ぎのことで話題に上る以外は、余計な詮索をする人もなく(皆しないように気をつけているようだった)、仕事は進んでいった。


そして数ヶ月が経ち、私はこの話を書いている。



人の死について書くことは、私にはいつも何らかの罪悪感があります。

ここに書くことは正しくないかもしれせんが、命を軽んじるつもりは一切ありません。
その人を悼み、自分の気持ちと向き合うために書きました。

最後に、この場をお借りして申し上げます。
心からご冥福をお祈りいたします。

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