【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】新たなる能力主義を構想する──マイケル・サンデルのメリトクラシー批判に応答して──

はじめに

 現代日本において、存命の哲学者の中でも有数の知名度を誇るマイケル・サンデル氏の著書である『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房,2021)においては、主に大学入試などにおける能力主義、いわゆる「メリトクラシー」に対する厳しい批判がなされている。アメリカの大学入試において、保護者の大学に対する献金により一部の学生が入試において優遇されるというような事態が多く起こっているにも関わらず、実態にそぐわないメリトクラシーの信念が浸透しているが故に、学歴による分断が社会に深刻な対立をきたし、名門大学の卒業歴を持たない者が負け組と見做される、現在のアメリカ社会の端的に滑稽な状況を軽快に描いているという面においても、本書は一読に値するものである。

 しかし、その問題を指摘した上でサンデルの主張する解決案は、「大学入試におけるくじ引きの導入」という、問題を何ら解決しないばかりかそれを悪化させ、大学教育に対する信頼そのものを、その根本から失わせるものである。また、アメリカにおいて政治家の学歴が重要視され過ぎることに対するサンデルの批判は、国家単位での政治が「統治」としての一面を、付帯的であれ持たないということが出来ないという厳然たる事実を、ほとんど意図的に無視していると言わざるを得ない。

 本稿においては、こうしたサンデルの議論に含まれる問題点を詳しく明らかにした上で、現実国家の社会秩序ということを入念に考慮しつつ、近代的メリトクラシーを乗り越え、新たなる教育システムと「統治」としての政治についての具体的図案を示すことが目的とされる。そして、それは、国家の基盤としての教育を新たに定義しなおすという意味で、新たなる「日本改造計画」への一歩へと、必然的にならざるを得ないものである。

絶対能力という虚構

 現代の日本に於いては、一般に自らの学力を確認する手段として、模擬試験の全国平均と生徒個人の成績を比較して偏差値を算出するという手法が用いられる。これは当然相対的な目安としての数字であり、模試の問題の難易度や、受験者全体の学力レベルといった、自己のコンディションとは関係ない変数により偏差値は上下する。精神科などで多く用いられるIQテストに関しても事情は同様であるが、こちらはより厳密な判定方法を用いて、知的障碍などの診断を下す為に用いられる。しかしこれもまた、平均からの知能指数のズレが判断基準であり、診断されるそれもまた、社会的な障碍でしかありえないものである。

 このように、基本的に能力という概念は社会的に定義されるものであり、サンデルの指摘するメリトクラシーもまた、集団における個人の能力の優劣を問題とするものである。しかし、この前提を踏まえると、このような能力概念に、基本的価値観や、個人が実際に社会においてどのような役割を果たしているか、あるいは果たしうるかといった、基本的に数値化されない項目が含まれないことは奇妙にも思える。人間が何を為すことが出来るかということを全て数値化してしまう事は端的に不可能であり、現状示されるような能力概念は、その中から数値化可能である部分を抜き出して仮構されているに過ぎない。サンデルの議論においては、数値化可能な能力と価値観の問題を区別した上で、後者の重視が主張されているものの、そもそもこれらは一体の「能力」として捉えられる必要がある。そして、サンデルは、この「価値観」の領域の問題を、共和主義の伝統に基づきつつ議論により「共通善」を構想することで取り扱うべきと述べる。しかし、このモデルには「権力」という観点が決定的に欠落していると言わざるを得ない。我々は紛れもなく階層を生きる縦社会の動物であり、我々が生きる倫理の問題もまた、縦の関係を取り扱えるものでなければならないはずである。

自由と平等の問題

 先ほども述べたように、サンデルが批判する「能力主義」は、しばしば数値化された人間の能力を以て人間を評価することを指している。そして、このような狭い意味での能力主義は、人間の抱きうる諸価値理念から全く切り離された能力概念を想定することによりもたらされるのであるが、「能力主義」の特徴はそれだけではない。『実力も運のうち』の第二章においては、この「能力主義」の西洋に於ける歴史が語られているのであるが、その過程において、決定的に重要な役割を果たしたのはキリスト教神学であった。サンデルによれば、旧約聖書のヨブ記においては、信仰とは功績や価値に応じて神が褒美や罰を割り振るよう期待する事ではないというメッセージが示されている。しかし、キリスト教が生まれると、神はどのような人間に救済を与えるのかという問題が議論されるようになり、そこから、悪を為した人間の救済を否定しつつ、神が世界の悪に責任を持つ事を否定するために、神の責任外であるところの、人間が悪を為す原因としての自由意志という観念が生まれる。サンデルは、その後の宗教改革において予定説を説いたカルヴァンの神学を信奉する人々が資本主義的な労働倫理を生み出したとする、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたかの有名な議論を引く。自分が神に救済されるか既に決定されていると信じていたはずの人間が、内心の不安から天職としての労働によって自らの救済を信じようとするが故に、実質的に労働をすることが救済の条件であり、労働をこなす能力によって救済されるかが決まるというような倫理観が生まれ、そして神による救済という問題が資本主義社会においての現世での成功という問題に置き換わるというウェーバーのこの議論をサンデルは発展させ、ここから現代における「能力の専制」が起こるとした。

 こうした倫理観を脱するために、サンデルは社会的成功と結びついた「機会の平等」という理念を批判し、競争モデルを排した上で多元的な労働の幸福を促す「条件の平等」を提唱する。しかし、ここにおいてもやはり、人間が縦社会を形成する動物であることは考慮に入れられない。我々の持つ競争心に無理な抑圧をかけようと試みる社会は、最終的にその抑圧された競争心の暴発によって崩壊するであろう。必要なのは、社会的競争の敗者でさえも部分的には納得できる様な階層的倫理の提示であり、それは資本主義における数字の論理に支えられたものではなく、端的に人徳の問題として表されるものでなければならない。

 そもそも、数値化され、それだけで取り出せるような能力が実在するというような錯覚は、自由意志という錯覚と深く関わっている。もし、我々の意志を身体などの外界と全く切り離されて思惟するものと捉えるのならば、計測された自らの身体的能力や、知能テストの結果は自らの意志とは対応しないということとなる。それは意志と能力の分離であり、このような方法で抽出された能力は、実際に個人が何を為しうるかという事とは何の関係もないということになる。しかし、実際にはこれらのテストは個人の「能力」の一部、すなわち個人がテストという枠組みの中で為しうる事は確実に反映しているので、意志と能力の分離は基本的に望ましくないのである。

 ここから、東アジアにおける儒学の伝統を再検討する必要性が生じてくる。儒学は、西洋において長らく問題とされてきた「自由」や「平等」という概念を持たない。それ故に、これまで西洋思想が全く見落としていた問題にフォーカスするために、儒学は極めて重要な意味を持つのである。

曖昧さの問題

 サンデルは、別の著書である『サンデル教授、中国哲学に出会う』(早川書房,2019)の第一一章において、同書第一章に掲載されている、シンガポール在住の儒学者である李晨阳による彼に対する批判に応答しているが、それに対する同意も積極的反論も行わず、答えを出すことを事実上棚上げにした形となっている。この批判は、サンデルが「正義」を社会制度における第一の美徳として取り扱うジョン・ロールズの立場を批判したにも関わらず、そのオルタナティブとしての「調和」を問題にしていないとするものであり、李は儒家としての立場から「正義」よりも「調和」が優先されるべきであると説く。李や、同書第三章において類似した指摘を行っている香港中文大学の黃勇によると、儒家の伝統的な法に対する消極的立場とは異なり、アリストテレスの議論に依拠するサンデルは、法律の制定により市民の美徳を推進する立場を取っている。その上でサンデルはさらに、共同体の中での熟議によって求められた共通善=正義によって法が制定されるべきであると説くのである。こうしたモデルは、どこでどのように行われるかも不確定であり、議論を行う人間の間に発生する権力関係について全く考慮されることもないような「熟義」が行われる度に常に更新され続け、永久に暫定的結論としてしか提示されえない共通善に正義と法の両方の全てを委ねるものであり、極めて不安定というほかはない。それは、同書において寄せられた批判のほぼ全てに曖昧な態度を取るサンデルの態度とも重なるものである[1]。このモデルにおいて国家社会を運営することは明らかに不可能であり、それは現代の国会が「熟義」という空虚な討論によって意思決定を行っている訳ではなく、実際には意見と意見の衝突において議員は政党・会派を背負いつつ、国民に向けてのパフォーマンスとして自らの意見の発信を行い、実際の意思決定においてはそれぞれの党派が落としどころを探りつつ多数決原理を以て法案の成否が問われるという、ある種の「調和」モデルとなることからも明白である。

現象学的儒学

 ここまで検討してきたサンデルの主張の問題点は、総合すると、彼が古代ギリシャ哲学以来の理想主義を引き継いでおり、共同体の基盤を調和でも権力でもなく「共通善」という全く空虚な概念に置こうとしていることに結実するだろう。サンデルが共感を述べるアリストテレスの“固い”目的論においては、事物に人間の視点を超えた究極絶対的な目的が付与され、そこに一切の冗長性はないのみならず、それを人間が求め尽くすことは原理的に不可能であるのにも関わらず、それを求めなければならないという仕組みが施されている。しかし、儒学における「天命」は、アリストテレスの議論と同じく目的論にカテゴライズされるにも関わらず、驚くほどに柔軟かつ人間本位な概念である。それは寧ろ、マルティン・ハイデガーが語る道具連関の議論に代表されるような、解釈学的手法における意味付けに近い発想のものであり、更に「道具連関」に対するエマニュエル・レヴィナスの批判にも対応するような、絶対他者としての「天」の概念をも含む極めて現象学的な概念なのである。

 このようなやり方で儒学を捉えることは、アリストテレスの目的論のような、「不可能な物への無限接近が目的化される」という西洋哲学の至る所に見られる問題含みのやり方から脱する道筋を与えてくれるだろう。

科挙について

 ここまで、私自身が提起した疑問点や、『サンデル教授、中国哲学に出会う』において示されたサンデルに対する問題提起を下敷きにして、儒学を基本とした思想体系のセットアップを行ってきた。ここからは、歴史的に存在していた科挙システムを参照することによって、それを実際の社会制度に反映させることを構想したい。

 近世の中国や朝鮮、越南において成立した、科挙による能力主義的な官僚登用は、マックス・ウェーバーの語るような近代官僚制システムとは根本的に異なるものである。ウェーバーは、近代社会の合法的支配を支える形式合理性を持った官僚制の特徴を、「合法的に制定された規則に従って継続的に経営される」、「規則によって各官職に権限が分配される」、「官職はヒエラルヒー体系として組織される」、「行政スタッフには専門的訓練が必要とされる」、「行政スタッフは行政手段から分離される」、「文書主義の原則に従って経営される」という6つに纏めている[2]。ウェーバーは、プロテスタンティズムを基準としつつ儒教の特徴を「外面性」に求め、徹底的に内心を問題としたプロテスタンティズムからしか近代は生まれ得なかったとしたが[3]、上に示された近代官僚制の諸特徴もまた、内心を徹底的に問題としないことにより成り立つものである。

 なお、ウェーバーの儒教観とは裏腹に、宋学以降の儒学は明確に内心を問題としている。しかし、それはプロテスタンティズムに見られるような絶対的に外界から隔絶された内心などではなく、常に外界との応答関係を持つものである。さらに、このことは、科挙官僚が単に外的能力だけで登用されているわけではないということをも示しているのである。科挙に出題されるのは単なる暗記問題だけではなく、儒教の価値観の理解が問われる論述や、さらには詩の製作といったレトリック能力を問うものまであった。これらの問題は当然、現代の入学試験や公務員試験とは一線を画すものである。

 もし、こうした官僚登用システムが国家社会に導入されたならば、単に金儲けに成功したというだけの人間が社会における成功者であるということにはならない。むしろ、成功者というのは、儒教的な人徳を体現した上で、人の上に立つものでなければならないのである。この場合、人徳は確かな社会的「能力」として機能し、従来の数値的なそれを置き換えるものとなるであろう。我々は、国家内の華夷秩序を生きる事となるのである。

 無論、現代においては、官僚以上に国民の代表である所の代議士の徳が問われなければならない。その為に、元来の主権者教育と道徳教育をセットのものとして捉えた上で大規模な改革を行わなければならないのであるが、それについては次回の課題としておきたい。


2023/10/26 @ayuraH__



[1] エイムズ=ローズモントによって主張された、外界から切り離された道徳的主体それ自体が存在しないとする主張に対する批判を除く。

[2] 徳永恂 他『人間ウェーバー』(有斐閣,1995,)中の浜日出夫「社会学の形成」115項より

[3] 『社会学評論』 「儒教とピューリタニズム」再考 佐藤俊樹(1990)

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