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フィクションとしてのロボットと自律性(と命令)

時代によるロボット像の変化

ロボットという言葉は非常に不思議な言葉である。ある時は当たり前のように現在あるものとしてロボットという言葉を使っている。、一方で遥か未来に実現できるものとしてもロボットという言葉を使っている。

ロボットという言葉にはどういうイメージがあるのか、また、どういった変遷をたどってきたのかというのを見ていきたい(ただし、勿論当時を生きていたわけでもなく、主観的なものなのも多分に入るので。そこはご容赦いただきたい)。

「ロボット」という言葉は1920年に書かれた戯曲『ロッサム・ユニバーサル・ロボット会社(R.U.R.)』が初出とされている。語源はチェコ語の「robota」からで、この「robota」は労働を意味する。
戯曲の中でも労働に従事する人造人間を指す言葉だった。

1930年代末に上映された際のポスター(wikipediaより

少し話がズレるが、1988年ごろに展開されていた「機動警察パトレイバー」という作品があるのだが、作中では人間が乗り込んで操作する機械のことをレイバーと呼んでいる。これは恐らくロボットの語源を知った上でこの名前を当てていると思われる(結構昔からこの作品のファンであったにもかかわらず、筆者はこの調査をして初めてそのことに気づいた)。

話を本筋に戻す。このR.U.Rの時点でロボットという言葉には人造人間という言葉と同じぐらいの自分で考え、自分で行動する、というニュアンスがロボットという言葉にはある程度含まれているように思える(実際R.U.Rは日本では「人造人間」というタイトルで紹介された)。

その後SFがブームとなり、アイザック・アシモフが1950年に「われはロボット」を執筆する。このあたりにはすでに日本でもロボットという言葉が定着していったのだと考えられ、翌年には手塚治虫の鉄腕アトムの連載が開始される。

1983年版の「われはロボット」(Amazonより

現在ロボットと呼ばれるものには形状には大きな差こそあれ、機能で言うと大きく3つの分類がある。1つは「R.U.R」や「われはロボット」のような人間に近い考え方ができ、振る舞えるロボットである。

他の2つは人間が遠くから操作する「リモート制御のロボット」、そして「人間が乗り込むロボット」だ。この2つは1950年代の後半あたりに増えてきているように思う。リモートで「鉄人28号」が1959年、「ガンダム」のモチーフと言われるロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」も1959年である。
ちなみに宇宙の戦士ではその着るロボットをスーツと称していて、ロボットという言い方はしていない(筆者は日本語版を読んだだけなので、オリジナルにはそういった用法があるのかもしれない)。

ちなみに再び蛇足だがロボットと言われた時に光沢感のある金属の身体を想像する人も多いと思う。そのイメージはSTAR WARSのC-3POや空山基などが作った1960年代後半以降から1980年代前半のトレンドのようだ。上記の1983年版の早川書房の「われはロボット」の表紙も空山基である。さらに遡るとストリームライン・モダンと言われているアメリカのフロリダ・マイアミ周辺の1930年代の様式が起源とも言われている。


自律性と現実のロボット

さて、ロボットの歴史を軽く一通り見てみたが、「リモート制御できるロボット」や「人が乗れるロボット」というのは後からでてきた概念であり、またある種当たり前になりつつあるロボットでもある。

一方で当初考えていた意味での自身で考えて行動するロボット、というのはなかなか「これは」というものは少ないのが現状である。

そしてこの手のロボットと「リモート操作のロボット」や「人が乗るロボット」を区別する際に言われるのが「自律性」だ。「自律するロボットか否か」が「自身で考えて行動するロボット」を説明する言葉として使われている。

しかしこの自律という言葉はよく考えてみるとなかなかに不思議な言葉だ。普段他の用途で使ったりはあまりしないのにロボット周りの会話の時だけ頻出する。

自律を辞書で引くと以下の説明が出てくる。

1. 他からの支配制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。
2. カントの道徳哲学で、感性の自然的欲望などに拘束されず、自らの意志によって普遍的道徳法則を立て、これに従うこと。

goo辞書より

主にこの1の「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること」が一般的にロボットを説明する際に使われる自律の定義だろうと思われるが、なかなかに高度なことを要求しているように感じる。実際のロボット業界では辞書通りの意味ではなく、「自律性」というものをレベル分けしている。

例えば低次の自律性が備わっているロボットといえばルンバなどがすでに製品化されている。辞書通りの大きなスコープでの自律ではなく、「部屋の掃除」という命令に対して「基本的には移動しながら掃除をする。ぶつかったら方向性を変えて再度進みながら掃除する」といった必要最低限の自律性のようなものを備えている。

なお、現在のルンバはもっと部屋のマップを作製して判断するなど、より複雑なアルゴリズムが実装され、もっと高度な自律性を持っていてる。つまり、段々高度な自律性を実装できるようになってきている。

我々からの要求、あるいは命令に対して自律性を開発実装する、というレベルであれば先のルンバのように着実に進歩し、実装してきているという感触はある。

が、辞書の意味での自律性、つまり人間と同レベルの高度な自律性という観点で言うとまだまだこれから、といったところのように思う。これはまさしく自律性の定義であるところの「他からの支配制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動する」ことにおいて、命令という他者からの制約をそもそも受けるために作られているから、ともいえるかもしれない。

生物の自律性とロボットの自律性

ただ、一方で生物も命令や制約を受け取っている、という考え方もある。例えば「子孫繁栄」や「生き残り」といった命令だ。

昔、「人工知能のための哲学」を執筆された三宅さんとお話しをしたことがある。三宅さんはゲーム中のキャラクターやモンスターなどのAI実装が専門なのだが、「今後どんなAIを開発したいですか」という質問に対し、「プレーヤーがゲームの世界でモンスターと遭遇した時、そのモンスターが子連れだったり卵を温めているところだったりする、そんなシチュエーションが作れるようなAIが作りたい」と話されていた。

当時はそういう意味では受け取っていなかったのだが、今、自律性と命令という観点で捉えると、これはAIにも生物と同じ命令を与えれば生物として振る舞うAIを作りたい、と言っていたようにも思える。

生物と同じ自己保存や自己反映を最大限に設定したロボットを作ろうとしても現実の世界ではロボット三原則のような人に危険が及ばないよう複雑な命令をオーダーしなければならないが、ゲームの世界だと生物と同じ命令を入れ込むことは可能なのかもしれない。高い自律性のロボットはソフトウェア業界で先に生まれるのかもしれない。


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