見出し画像

経験の浅い先生が叱ることができないのは当然じゃないか??


 「もっと厳しくしなさい」

 「もっと叱りなさい」

 

 


 保護者にも同僚にも上司にも子供に言われるのだから、「叱れない」というのは僕の大きな課題なのでしょう。

 では僕はどうして子どもを叱れないのでしょうか?


心当たりがあるのは以下の理由です。

「子供に嫌われるのが嫌だから」

「ショックを与えるのが可哀想だから」

「保護者からのクレームが怖いから」

「あまり子供(他人)に興味がない疑いがあるから」

「疲れるから」

「自分が怒られて嫌だった経験があるから」

「他の先生の怒り方に疑問を覚えるから」

「『ラクダを水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない』という価値観をもっているから」

「別にそれくらいいいじゃんと思ってしまうから。叱る基準が分からない」

 
 ざっとこれくらい思い浮かびます。でもですね、これらって自分が「叱らない」という目的を叶えるためにこしらえたもののような気もするんですよ。

 僕には「叱らない」という目的が先にあって、それを正当化するために様々な原因をつくり出しているのではないかと。

 だから、なぜ叱れないかを自分に問いただしても答えは出てきそうにありません。「叱らないことで僕はどうしたいのか」というところを問いたださなくてはいけません。



・・・。



 いや・・・違うな・・・。

 



 僕には「叱らない」という目的がないのではなく、むしろ「叱る」目的がなかったんだと思います。そうだ!!きっとそうだ!!

 「叱る」という行為は目的がなければ成立し得ない行為です。「こんなふうに育てたい」という子ども姿が明確だからこそ、「叱る」ことができるのです。目的のない叱りはただの怒りです。

 

  ここで、「僕はどうして子どもを叱れないのでしょうか?」という問いに答えたいと思います。

 
   目指す子供の姿が明確じゃなかったからです。





 では、目指す子供の姿とはどんな姿なのか。それは「主体的に生きていける人間を育てること」です。「公の意識と自己内責任をもった人間を育てること」と言い換えることもできます。

 ただし、これらは学校教育、家庭教育、地域教育全てで目指していくものであって学校だけで担えるものではありません。

 何よりふわふわしすぎていて、「目指す児童の姿」としてイメージするのが極めて難しいです。

 だから僕は、授業における児童の姿を「目指す児童の姿」として設定しました。授業こそが学校教育の真髄であり、ここで見られる児童の姿で教師は評価されるべきだと思うからです。

 授業において僕が「目指す児童の姿」は知的な意味で、楽しく学ぶ児童です。

 ではそレラが成立するための詳細を「態度」「技能」で見ていきます。

 ○態度
  ・正誤に関わらず、自分の考えをもとうとしている。
  ・自分の考えを表明しようとしている。
  ・友達の話を最後まで聞こうとしている。 
  ・友達の意見を否定しないという意識をもとうとしている。
  ・友達の意見に反応しようとしている。
  ・素早く行動しようとしている。
  ・丁寧に行動しようとしている。
  ・学習に対して前向きである。←後ろ向きなことを言わない

○技能
  ・自分の考えを書くことができる。
  ・自分の考えを簡潔に分かりやすく伝えることができる。
  ・友達の話を最後まで聞き、復唱することができる。
  ・友達の話に繋げるように発言することができる。
  ・友達の意見を否定せず、肯定的な反応ができる。
  ・素早く行動できる。
  ・丁寧に行動している。
  ・後向きな言動を抑えることができる。

 ここまで明確にすれば、僕は児童のどんな行動を認め、どんな行動を叱れば良いかが見えてきます。

 注意が必要なのは、恐らく「態度」と「技能」では教育のアプローチが違うということです。

 態度に対しては「認める」「叱る」といったアプローチを用い、技能に関しては「教授」「支援」といったアプローチが必要なのではないかと考えます。

 例えば・・・「行動がぐずぐずしている場面」。素早く行動しようとしていないのか、それとも素早く行動しようとしているが手先が不器用で行動できないのかを見極める必要があります。

 前者に支援を、後者に「叱る」を使ってもあまり効果はないように思えます。よって、まずは注意深く観察したり、「素早く行動しようとしている??」と聞いたりする必要があると思います。



 今回は、どうしたら自分は叱れるようになるかについて考えてきました。結論は「目指す子供の姿が明確じゃなかったから」でした。

 だから、目指す子供の姿を改めて明確にしてみました。(ここで紹介したのはごく一部です)。 ここまでしてやっと気づくことができました。「叱る」とは「願い」であるということに。

 そして、その願いが明確になって初めて、叱ることができるようになるということに。

 そう考えたらですよ・・・。経験が浅い教員が叱れないのは当然じゃないですか??

 願いはある。思いはある。でも、経験が浅いが故に「願い」や「思い」を具体的な児童の姿に落とし込めない。だから、どんな場面で叱れば自分の「願い」や「思い」に辿り着くか分からない。よって、叱れない。

 こうなるのは当然じゃないでしょうか??

 なので、もし僕が叱れないことに悩んでいる後輩ができたら、一緒に「思い」や「願い」を明確化するのを手伝ってあげられるような先輩でありたいです。


 

 

 
  

  

 

 

 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?