なっちゃんと学校に行きました。
私が小学生になる年に、私達家族は、小学校の裏手にある新築のマンションに引っ越した。
たぶん、他の家族もよいタイミングだと考えたのだろう、私の家の真下にも、その下にもその下にも、私と同じ年の子供がいた。
縦だけではなく横にも、やはり同じ年の子供がいた。私と同じ階、エレベーターのすぐ横の家に住んでいたその子供を、仮に、牧村なつみ、とする。
元々私は彼女を「なっちゃん」と呼んでいた。
なっちゃんはドラえもんのような体型で、ショートカットの、元気な子供だった。
小学生の頃、私は日記をつけていたのだけど、平日は、毎日以下の定型文から始めていた。
今日は、朝おきて、朝ごはん食べてしたくして、なっちゃんと学校に行きました。
ノート1ページに1日分のことを書くこととしていたが、無精な私は毎日こまめに書くことができず、しょっちゅう空白のページが続いた。
かと言って、毎日分のページがないのは癪で、1週間後に1週間分のことを思い出して書くことも多かった。
しかしその日何をしたのか思い出せないことがしばしばあり、まあ、朝していることが同じであることはたしかだろうと、日付と例の定型文だけ書いて、日記とすることも少なくなかった。
(ちなみに、なっちゃんが風邪で休んだ日にもそのことを忘れて「なっちゃんと学校に行きました」と書いていたので、もはやあれは日記ではない)
我々は放課後、頻繁に互いの家を行き来した。とはいえ、なっちゃんの家に行くことの方が、ずっと多かったと思う。
なっちゃんの家は、彼女のお母さんの趣味で、アメリカ風だった。例えば飾られているタペストリーや、玄関マットや、食器なんかが。
彼女の家には、鯉ほどの大きさの金魚がいた。
あまりにも大きくなりすぎて、もうその水槽の中では方向転換できないらしかった。
彼女の家には、いっときザリガニもいた。
ベランダで飼育されていたが、ある日何を思ったか身を投げて、還らぬザリガニとなった。
彼女の家には、スーパーファミコンがあり、コロコロコミックがあり、デジモンがあった。
それらはすべて、私の家にはないものだった。
私の家になっちゃんが来たときのことで覚えているのは、我々が小学校2年生のときの出来事、たった一つだけだ。
きっかけは忘れてしまったが、テンションが上がったなっちゃんが服を脱ぎ始め、すっぽんぽんで踊り始めたのだ。
人の家で全裸で踊る少女を見て、私の母(元小学校教師)は、「このような子供は見たことがない」と言った。
よほど印象的だったのか、私達が大人になってからも、母は何度も、この話をした。
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中学生になった私達は、別に申し合わせた訳ではないのだが、同じ部活に入った。
私の下の家の住人も、下の下の家の住人も、同じく吹奏楽部に入った。
(「だから」私は吹奏楽部に入った、と言ったほうが、むしろ正確なのだが)
当時は弱小吹奏楽部だったから、入部した最初の年は、ゆるかった。
練習は、適当。最初は、同じ楽器のパート仲があまりよくなく、1年生と2年生は別々に練習していた。
やっと一緒に練習するようになった頃のグループレッスンで、私の一つ上の先輩は、大学生のトレーナーさんの前でおもむろに指をこすりだし、おばけけむりを生じさせていた。
演奏の善し悪しなんて、どうでもよかった。
みんなで演奏して曲っぽいものができることで満足していた。
しかし、音楽の先生が産休に入り、代打として講師の先生がやってきたことで、雰囲気は徐々に変わっていった。
講師の先生は、変な服を着ている割に(例えばうさぎに車輪がついているTシャツなど)、熱心な男だった。
基礎練習を丁寧に行うと、こんなに色んな音が出せるようになるんだ、と教えてもらった。
よく考えてつくられた和音は、夕焼けの空みたいに胸を打つものだと、教えてもらった。
私達が何も悔しがらないことについて、めちゃめちゃ一生懸命、怒られた。
そんなにされると心は動くわけで、私は初めて、みんなで何かを真面目につくることに、意味があると思うようになった。
だから私は、頑なだった。
頑なだったから、なっちゃんが許せなかった。
なっちゃんは、2年生になっても、そのひょうきんな性格をTPO問わずに大爆発させていた。
練習中後輩の邪魔をしたり、横を向きながら講師の先生に返事をしたり、肘をつきながらトランペットを吹いたりしていた。
なんで、真面目にやらないんだろう、と苛立った。
だから、部活を引退する直前だか、そのあとだかに、私は彼女の相手をすることをやめよう、と決意した。
怒ってもだめなら、罰しよう、と思った。
具体的には、彼女が話しかけてきても、「まあ」とか「うん」とか言って、会話を終わらせることにした。
そうしたのは、1回や2回じゃない。
毎回だ。
しかもいつも、絶対笑わなかった。
だから、なっちゃんがそのことに気づいていないはずはないのだ。
それなのに、なっちゃんはめげずに私に話しかけてきた。
「ね、あか?」となっちゃんはよく言った。
私は、「ああ、まあ」くらい、応える。
いつも、長い会話はしない。
部活の他の友達は、私を「あかしん」と呼んだ(赤司だから)。私を「あか」と呼ぶのは、なっちゃんだけだった。
部活の他の友達は、彼女を「まきむ」と呼んだ。
彼女を「なっちゃん」と呼ぶのは、最初はマンションが同じ友達数人だったが、一旦私だけになり、そしてとうとう、誰もいなくなった。
…いや、それは嘘。
私の母だけは、彼女のことを「なっちゃん」と呼び続けた。
母は時々なっちゃんの話をした。
私はそれが、すごく嫌だった。
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中学の吹奏楽部の同期は仲がよく、卒業してからも、時々ボーリングなりカラオケなりで、集まった。
なっちゃんは相変わらず、私がどんなに疎んじても、なんにも変わったことはないみたいに、話しかけてきた。
「ね、あか?」
「あかもそうだよねえ!」
最初は、鬱陶しかった。
なんで、こんなに拒まれても話しかけてくるんだろう。なんで、嫌な気持ちを汲んでくれないの?
なっちゃんがいると、楽しみな集まりも心から喜べなかった。
それでも、あまりにもなっちゃんは熱心だった。
いつもめげずに、話しかけてきた。
だから、徐々に「もう、いいじゃないか」と思うようになった。
毎日一緒に学校に行ったのに。
一緒にプールに行ったのに。
ポケモンカードを見せてもらったのに。
彼女は、ほとんど唯一の幼馴染なのに。
と、私の中の私が言う。
そもそも、部活のときだって、最後の最後で、なっちゃんはがんばって練習していたじゃないか。
私以外の誰も、なっちゃんを罰してなんていないじゃないか。
それである日、唐突に呼びかけに応えてみることにした。
もう「なっちゃん」と呼ぶことはなんだかできなくて、「まきむ」と呼ぶことにして。周りの友達みたいに、自然な様子を装って。
それに対して、なっちゃん改めまきむは、いつも通りですけど、というような何気ない調子で、応えてくれた。いつも通りの、全力のばか笑いで。
それはあまりに簡単で、あまりに普通の会話で、人生の一大事なのに、と私は拍子抜けした。
まきむも私も、泣いたりしなかった。
ただ、もとの場所に戻ってきた。
まきむの忍耐力と、優しさのお陰で。
今でも、私は許されてよかったのか、と思うことがある。
自分のことを粗末に扱う人のことを、粗末に扱わないまきむは、神様かなんかなんじゃないか。
そういえばまきむも、私のことをもう「あか」とは呼ばない。
いつからか、「赤司」と呼ぶようになった。
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中学のときの体験に衝き動かされたらしいまきむは、その後(おそらく)猛烈に楽器を練習して音大に進み、今は中高生の金管楽器トレーナーの仕事をしている。
体型含め、まきむの見た目は中学生の頃からほとんどずっと変わらないから、彼女の吹くトランペットの音が全然違うのは、変な感じ。
中学の友達の結婚式のとき、久しぶりにみんなで集まって演奏をしたのだけど、練習のときにばしばし指導したのは、まきむだ。
指導をするときのまきむは、いつものふざけた話し方と違って、てきぱき話す。こんなふうに仕事をしてるのだろうか、と想像する私。
(本当は気を逸している場合ではない、なにせ私は、当時よりもますます楽器が下手なのだ)
とても誇らしいし、なんだか悔しい。
ある日、まきむも含む、何人かの中学の仲間が出る演奏会の会場で、まきむのお母さんとおばあちゃんを見かけた。
少し離れた場所から軽くお辞儀をしてみたけど、向こうからの反応はなかった。
娘や孫にひどい仕打ちをされて、何もなかったみたいにされたら、そりゃそうだよな、と私は思った。
ほんとは、向こうは私のことに気づかなかっただけかもしれないけど、とにかくそう思った。
まきむと同じ体型で、おやつを出しながら豪快に笑っていたまきむのお母さんとは、もう一生話せないんだな、と、どの瞬間よりそのとき一番、実感した。
そしてたまらなく、悲しくなった。
でも、こんな状況を招いたのは、自分だ。
ちゃんと自分のずるさを認めて、罰を感じて生きていかなければ。
そう考えることにしていた。
私の母親が、死ぬまでは。
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もし結婚したら、結婚式に誰を呼ぼうかな、ということは考えたことはあるけど、親のお葬式に誰を呼ぶかなんて考えたことがなくて、私は途方に暮れた。
とりあえず、「母に会ったことがある私の友達のことは呼ぼう」と決めた。
それで、中学で部活が一緒だった友達にまず連絡した。同じマンションに住んでいた友達には、「よかったら、みんなのお母さんにも伝えてください」と書き添えた。同じマンションのお母さんたちは、お茶のみ友達だったから。
私も、まきむも、私の下に住んでいた彼も、私の下の下の階に住んでいた彼女も、みんな、家を出てしまった。
まきむは、家族みんなで引っ越したから、エレベーターの横の部屋に住んでいる人のことを、私はもう知らない。
私は、遺族として一番前の列に座りながら、参列してくれる人たちのことを眺めた。
そこに、まきむのお母さんがいた。
悪かったのは私で、私の母ではなかったのだけど、「あんなことがあっても来てくれたんだ」と、びっくりした。
でも、心のどこかでは、きっと来てくれる、と思っていた気もした。
出口付近で参列してくれた人たちにお礼を言っていると、まきむとまきむのお母さんが近づいてきた。
まきむのお母さんは、まるでいつもそうしているかのように「大変だったね」と話しかけてくれた。「お母さんとは時々会ってたのよ」とも。
他にどうすることもできなくて、ごめんなさいが言えなくてごめんなさいと思いながら、私はなんとか、やっと、「ありがとうございます」とだけ、返すことができた。
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私はまきむと、1対1で会ったりはしない。
まきむのお母さんには、ますます会わない。
でも、私を、ずるくて意地悪でプライドが高いどうしようもない私を、許してくれた親子がこの世にいることに、本当に救われている。
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