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VTuberに「魂」も「ガワ」も存在しない:アズマリムのスピーチについて

VTuberリスナーのみなさん!

先日の、アズリム復帰配信はご覧になりましたか?

私は正直、目が潤んで画面が見えませんでした。
特にこの箇所は、とてもよかったです。

よく聴いてください。
昨今のバーチャル業界は、かつてのアズリムと同じような苦しい思いをしている人が、たくさんいると思います。まだできて間もない、道しるべが無い業界だからこそ、実際に活動する人も、運営する会社の人も、応援している人も、みんな、様々な立場で、悩みを抱えていると思います。
立場が違えば、考え方や悩みも変わってくるのは当然です。
アズリムは、様々な問題や悩みの起点は、「バーチャルユーチューバーがなんなのか」、整理されていないところにあると思います。
芸能人とも、アニメのキャラとも、着ぐるみとも違う「バーチャルユーチューバー」。
「しょせんはバーチャルだから~」って、その存在を、無いものとして扱う人がいます。バーチャルは、生きていないことこそがメリットで、そのメリットを生かして人格を変えたり、操作性が高いところを有効活用すべきだ、って。
逆に、「バーチャルだって生きている!」と、その存在をあるものとして扱う人もいます。バーチャルであっても、そこには一つの人格、魂があって、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、そういう気持ちを、生み出していることには、変わりないよねって。
この二つの視点の食い違いが、結果的には熱量の差を生んで、いろんな問題が解決しないまま、置き去りにされてきたと思います。
アズリムは、バーチャルユーチューバーは新しい存在なんだから、強引に、既存の価値観にあてはめるのは無理があるのではないかと考えています。
新しくて、わくわくする、みんなが納得できる存在理由や、役割を探したいんです。バーチャルユーチューバーという存在は、契約だけで縛るものでも、特定の誰かの都合に従うべきものでも、お金を持っている人に従うべきでも、無いと思うからです。

このスピーチからは、アズリムがVTuberについて、かなり真剣に考えてきたということが分かりますね。

内容をすこしまとめましょう。
アズリムは、「VTuberを既存の価値観にあてはめないで」と言います。ここでいう「既存の価値観」とは、文脈から考えると、「アズリムの周りで飛び交っていた二つの立場」のことでしょう。

一つ目は、「VTuberは存在しない」という立場です。VTuberの人格を、交換できるものとみなします。
二つ目は、「VTuberは存在する」という立場です。VTuberには魂があるから、人格の交換はできないとみなします。

多くの人は、「一つ目の立場はあり得ない」と言うでしょう。しかし、アズリムは一つ目だけでなく、二つ目の立場も挙げてから、「既存の価値観」と発言しました。

果たして、アズリムは何が言いたかったのでしょう。

私は、「」という言葉に注目します。
一つ目の「VTuberは存在しない」という立場は、当然ですが、VTuberを「魂とガワ」に分けて考えています。
また、一つ目の立場だけでなく、二つ目の「VTuberは存在する」という立場もまた、VTuberを「魂とガワ」に分けています。そのうえで、「魂があるからVTuberは存在している」つまり「中の人がいるからVTuberは存在している」と、彼らは言うのです。

でも、本当にそうなのかなあ」と、アズリムは投げかけています。
そう思うからこそ、アズリムは、新しい存在理由や役割を探したい」と言うのです。

じゃあ、私もセンパイの一人として、可能性を提示すべきかなと思いました。なので、このnoteではそれについて書きます。

先に結論を述べますが、思うに、VTuberには、魂もガワも存在しません

「は?」と思われた方、落ち着いてください。今から説明します。


こんな状況を想像してください。

みなさんは今、VTuberの配信を観ています。面白い。楽しい。ずっとこの時間が続けばいいのに……。あなたは没頭しています。
その時、あなたは魂とか、設定とか、モデルとか、そんなことを考えていますか?

考えていませんよね。
「このVTuberおもしれー!」っていう気持ちと同時に、魂やガワの発想は浮かんできませんよね。

私は、その気持ちに注目します。
というのも、VTuberを見ている時のあの気持ちって、実はすごく特別な瞬間なんです。ご存知でしたか?

西田幾多郎という、メガネをかけた有名なおっちゃんがいます。

このおっちゃんは色んなアイデアを書き残してこの世を去ったのですが、その中の一つに、「主格未分」というものがありました。

たとえば、ここにサブスクで音楽が聴けるスマホと、その持ち主であるパリピがいるとします。パリピは、サブスクで手当たり次第に音楽を流しています(サブスク=パリピのイメージがあるのですが、たぶん偏見ですよね)。

このとき、ヨーロッパの人たちなら、こう考えます。パリピは「主体」で、スマホから流れる音楽を「客体」だ、と。
主体は「する人」で、客体は「される物」のことです。ヨーロッパの人は、聴く人が主体で、聴かれる音楽が客体だと考えていました。

これ自体は、間違った区別ではありません。

しかし、西田のおっちゃんは少し見方が違いました。西田は、「ヨーロッパの人たちは大切な段階を見落としている」というのです。
一体なんのことでしょう。
それは、「音楽を聴いたときの感動」でした。音楽を聴いたときの、楽しい感じ、悲しい感じ、寂しい感じ、爽やかな感じ。これをヨーロッパ人は見逃している、そう西田は言います。

そして西田のおっちゃんは、「その感動は主体や客体に分けられるものではないはずだ」とも言います。
たとえば、あなたが音楽を聴いて楽しい気持ちになったとします。その楽しくなる瞬間を思い出してください。そのとき、「私」とか「音楽」とか、そういったものはどこかに消えてしまっているはずです。

すなわち、「待ってこの音楽めっちゃ好き……待って無理なんだけど」という言葉で言い表したいその感動に、主体も客体も無いのではないか? それが西田のおっちゃんのアイデアでした。

VTuberの魂とガワについても、これと同じようなことが言えるのではないでしょうか。これが、私の言いたいことです。

私たちがVTuberについて考えるときには、「魂/中の人/演者/声優」「ガワ/モデル/体/絵」など、さまざまな言葉が使われてきました。

これらは、たしかに有用だと私も思っています。みんなが知っているおかげで、これらの言葉は本当に使いやすいです。それに、VTuberの仕組みについて、こんなに端的に表現できる言葉は他に無いと思います。だから、みんなここまでこの言葉と付き合ってきました。

でも、私はあえて、それは「理性による後付けの言葉だ」と言いたいです。

VTuberは、もともと魂やガワには分かれていません。最初、彼・彼女は、それそのままに存在しているんです。
つまり、VTuberはVTuberなんです。
彼・彼女は、魂でも、ガワでも、設定でもありません。彼・彼女そのままなんです。VTuberは、独立した一つの主体なんです。
VTuberは、VTuberのまま、存在するんです

それなのに、魂やガワといった言葉は、VTuberを真っ二つに引き裂いてしまいます。
アズリムの件は、魂とガワが引き起こした悲惨な事件ではなかったでしょうか。

私は、魂やガワといった、これらの言葉との付き合い方を変える時が来ていると思います。
つまり、もっと、あの「魂とガワに分かれる前の状態」に目を向けるべきだと思うんです。


私と同じような考えは、実はいくつか出現しています。ここでは3つ、紹介します。

1つ目は、このnoteです。

VTuber文化の構造についての論考です。
この筆者さんは、VTuber文化が「中の人などいない」というフィクションによって成立しているといいます。そしてそのフィクションによって、VTuberはそれ単独で人間扱いされるようになったといいます。

キャラクターが完全な主体としてみなされる限り、そのキャラクターが現実世界で肉体を持っていることは許容される

特にこの引用箇所は、「わかる」になりました。私のVTuber観も、この筆者さんに非常に近いです。


2つ目は、このブログです。

ここではVirtualism(ヴァーチャリズム/バーチャリズム)という思想が展開されています。
記事を読む限り、バーチャリズムとは「バーチャル至上主義」のことです。現実を完全に排除してしまって、バーチャルのことだけ考えようと、筆者さんはそう言います。なぜなら、ヴァーチャルを見ているとき、現実世界のことを考えたら白けてしまうからです。

ヴァーチャリズムに置いて重要なのは「ヴァーチャルYouTuberとして振る舞う一つのキャラクター」という存在を重視し、その人格そのものの独立性を重視し、あえてそこに現実を持ち込む必要性を認めない思想であるともはっきり言っておく。言い換えるならば「現実とは違う世界において違った振る舞いをしているキャラクター(人格)」そのものの現実を前提としない独立を主張する思想であり、そこに一定の個別的な人間的実存性の価値を認める思想である。
(「ヴァーチャリズム/バーチャリズム(Virtualism)における具体的定義とバーチャルYouTuberにおける「魂」の説明」より)

つまり、VTuberのバーチャルな側面を重視しよう。現実を持ち込まないようにしよう。VTuberは独立した、一つの主体だと認めようということです。

先ほどのnoteとは、アプローチが違いますよね。先ほどは、現実世界にもキャラクターが肉体を持って存在する可能性が提示されました。一方、この記事ではキャラクターから現実を切り離してしまうことによって、キャラクターを自立させようとします。
私も、VTuberを主体としてみなす可能性が提示されている点で、強く支持したいと思います。


3つ目は、こちらのnoteです。

黛灰の配信から発想を飛ばし、VTuberの「中の人」について書いた記事ですね。
ここでの主張の中核は、「VTuberとは仮想世界に生きる存在である」ということにあります。
まず筆者さんは、VTuberがオフの時、①そのままの姿で過ごしているパターン②中の人として過ごしているパターンの2つを考えます。
次に、筆者さんはVTuberを、「作者を認識できないアニメのキャラクター」のように、「中の人を認識できない存在」であると考えます。そしてもしそうであれば、VTuberは②のようなメタな視点も、持ち合わせないのではないかと言うのです。

この論をとるならば、Vtuber自身が「Vtuberだって生きているんだ!」と主張したとき、我々は中の人ではなく、仮想存在としての生命を考える必要があるのではないでしょうか。

そして、しっかりと大事な点にも触れています。

この仮想存在・現実存在の狭間にあるという複雑性が、認識論を深めているのではないかとも思う

この箇所は、まさにアズリムが言いたかったことだと思います。VTuberはただのキャラクターでも、人間でもないのです。

私の意見ですが、このnote全体としては賛成半分といったところです。そもそもVTuberはアニメのキャラクターでは無いと私は思うので、それを前提とした論理にはちょっと賛成できないかなあと思います。
しかし一方で、「VTuberを一つの主体として見ようとする」点においては、私や他の記事と共通していますし、その点は強く支持したいです。

以上のように、「VTuberを主体として見よう」「VTuberはVTuberだ」というムーブメントは、徐々に熱を帯びてきています。これから一層のこと、盛り上がってもらえると期待しています。


最後に留保をつけておきたいのですが、私に魂やガワを完全に葬り去ろうという気は、全くありません。その存在は否定しようがない事実だからです。だから、「中の人は全くいない」「設定なんて全くない」とは言いません。

ですが、VTuberに感じるあの感動には、ある力があります。それは、魂とか、ガワとか、設定とかいったあの残酷な"引き裂き"を、縫い合わせてくれる力です。
だから、あの感動を軸に、「主体としてのVTuber」を考えてみるのも良いのではないかと、私はそう思うのです。

以上が、私なりの、アズリムへの応答でした。
みなさんはどう考えるでしょうか。


追記
はてなブログにも記事があります。このnoteよりもしっかりめに書いてあります。固い文章に抵抗のない方はこちらもどうぞ。


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