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回帰する核家族の未来 4.2 自然化された家族の意義(2)

より続く)

LIFE SHIFT と核家族

リンダ・グラットン&アンドリュー・スコットは『LIFE SHIFT――100年時代の人生戦略』において、長寿化に伴う生涯設計の変容をテーマとしている。ここでは、これまで教育・労働・隠退生活という3ステージが生涯設計の基本だったが、これが崩れていくと言っている。労働に費やす期間が長寿化に伴って長くなると同時に、技術革新のスピードが速く、人生のはじめの20年程度の教育期間だけでは、労働者としての生産能力が枯渇してしまいかねないためだ。必然的に学び直しの機会が不可欠になるが、著者はここで夫婦が助け合うケースが、つまり一方が仕事から離れて再学習をしている間、他方が外に出て働いて収入を得るようなケースが増えてくるのではと予測している。

非定型で様々な核家族においては、こうしたケースは他にいくらでも想定できる。夫婦関係にのみ限っても、たとえば一方が会社員として働き、他方がフリーランスとして働く共働き形態は魅力的かもしれない。会社員は固定収入を稼ぐことができる反面、フリーランスは時間的な束縛が緩いうえに、不安定とは言え一時的に大きな収入を稼ぐことができるからだ。もっと積極的なケースでは、夫婦二人が別々にフリーランスとして自分の能力を活かすことで、個人事業に特有のリスクを分散しながら、大きなリターンを目指すこともできる。これらの事例に親族ネットワークの相互扶助を加えるならば、非定型的でときには未分化のアルカイックな核家族は、柔軟性に富んだ経済戦略集団として、近代資本主義が突きつける厳しい条件を乗り越えていけるかも知れない。

育児と生産の家族内連携

こうしたことは動物の行動からも学ぶことができる。人間の家族にとっても、出産と育児、つまり繁殖が最大の課題であり、生物としての役割であることは間違いない。だが、ハトやツバメの夫婦が、一方が雛を見守り、他方が飛び立って餌を捕獲して雛のくちばしに給餌することを繰り返すところから、たんに男女の役割の交換だけを学ぶならば、それはイクメンや主夫のような現象にしかならない。それは決して悪くないが、それ以前に、交換可能であること、つまり育児ばかりではなく、外に出て働くことも家族の役割としてあることを学び取るべきなのだ。家族の自然的定義には、その機能として消費だけではなく、生産もまた含まれるのである。

自然界から学ぶべきことは他にもある。他の動物たちと生物としての人間の家族を隔てるのは、その形態の多様性にほかならない。ゴリラは雄がハーレムを作って生活するのに対して、チンパンジーは乱婚である。オランウータンは森で雄と雌が別々に暮らす。前述のようにハトやツバメは抱卵、子育てと餌の捕獲を雌雄が交替で行うが、カラスの雄は抱卵はしない。これらの形態は原則的に種として固定的で変わることがない。しかし、人間の家族形態は無数と言ってもいいほどの多様性を示すのだ。しかも注目すべきなのは、同じ地域に住む一つの集団の間でも、家族形態は異なることが多い点だ。トッドも指摘することだが、王家や貴族の家族形態と庶民のそれが異なることは珍しくない。

このことは、第一に、自然環境に対応するために人間の家族形態は多様で柔軟に進化したことを示唆している。地球上の全域を棲息域とする動物は人間だけだからだ。しかし、そればかりではない。第二に、人間自身の作り出した社会環境に対応するために人間の家族形態は多様に進化した、という点も重要である。社会階層によって家族形態が違うことがある事実は、このことを示している。ここでは詳細は触れないが、こうしたことが可能なのは、繁殖や性に関する身体的機構に伴う物理化学的条件とその進化論的プロセスによって獲得した表現型との多義的な関係性によっている。

それゆえ、ここから示されるのは、人間には家族を取り巻く環境として自然と社会とがあり、したがって家族は自然と社会の境界においてある、という点にほかならない。家族が、生物としての人間にとって最も重要である出産と育児という役割を担うにもかかわらず、外部の生産体制から圧力が加わるのは、生産過程の多くが自然環境とは別の領域に属しているからだ。近現代においてはこの圧力は近代資本主義のそれにほかならないが、こうした圧力のもとでも人間の家族が多様で柔軟な形態を採りうるのは、身体的機構の物理化学的条件と自然淘汰によって獲得した形質の間の多義性を基礎としている。そして、このことが、人間の家族が存する自然と社会との境界に曖昧性が生じる理由でもある。

ドーキンスと延長された表現型

対照的に、人間を除く生物の生活環境には自然と社会とが埋め込まれており、こうした圧力は存在しないリチャード・ドーキンスはこうした生物の生活環境を「延長された表現型」と言っている。ドーキンスによれば、生物の活動は、寄主が体内の寄生者に影響を与えるのと同様に、生活環境が個体に対して作用する。これは遺伝的に作られた身体的機構、つまり表現型を介した連鎖によっているが、同時にまたその個体の身体的機構が生活環境にも作用する点で、生活環境全体は「延長された表現型」と呼ばれるのだ。このことは、体内の寄生者が寄主の作る環境に影響を与えることと同一である。こうした相互変化は、長期的には自然淘汰による共進化として生態系全域を形作り、変貌させるプロセスである。これは「環世界」のような概念に似ているが、注意しなければならないのは「延長された表現型」は自然淘汰の産物であるという点だ。それはその生物の生活環境全体を範囲とする遺伝子の相互作用によって形作られている。ドーキンスは、『延長された表現型』において、ビーバーの生活環境は一つの湖沼ぐらいの広さには及ぶ、と言っている。この範囲の中心にはビーバーの家族があるが、ドーキンスがこの中心に家族を据えたのは、それが遺伝子を核とする細胞の代謝、つまり生産と消費による繁殖の拠点だからだろう。ビーバーの家族の生産と消費は全てこの範囲内で賄われるのだ。

これに対して、生物としての人間にとって、自然と社会とは生活環境に埋め込まれてはいない。人間の生産と消費、つまり経済活動は生活環境を大きく超えた社会関係を作り出す。そして、それが経済集団としての家族に大きな圧力を加えるのだ。このことは、自然淘汰だけではなく、文化淘汰が働くことを意味している。すなわち、こうした人間の社会を作り出す能力、つまり言語や論理的推論は、科学技術を通じて、自然をも作り替えるのだ。その結果、自然と社会とはそれぞれが家族の多様で柔軟なあり方に作用するだろう。これはつまり、自然と社会との境界にあって揺れ動く人間の家族の活動は、自然淘汰による共進化の作用とは別に、文化淘汰によって社会ばかりではなく自然をも作り替える、ということだ。家族の自然的定義が示唆する要諦の二つ目はこの点である。

(続く)
筆・田辺龍二郎


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