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世界の機・世界の修理.導入部:その1「世界にはどんな問題があるのだろう?なぜ起きるのだろう?」

どんな社会が望ましいだろうか?

抑圧が極力少なく、それぞれがそれぞれの多様な創造性を実らせる、少なくとも実践しトライできる社会だろうか。

差別をされることもなく、どのような人でも生命の充実を感じられる、生きる意義を見つけられる、生きていることがおもしろい、そのような社会だろうか。

さて、この2つには、否定的な目標と肯定的な目標が混じる。

否定的な目標は、より多くの貨幣とより多くの権力とより多くのプライドを目指した争い、問題、統治、から生まれている抑圧と差別と格差をどう取り除くかにあるようだ。

そして、肯定的な目標は、それぞれ個人の能動的な欲望が充たされるということに根ざし、多様性を前提とする。人間の好奇心の赴くままに自然的欲求を現実化させるために創造する

しかし、多様な・創造的な生は、慣習や法制度や市場の力で多くは抑圧される。それは人間の世界での物質消費・廃棄・再生のために行われる「交換」に深く根ざした構造の問題のためである。いや、多様な・創造的な生への欲望が交換を通して転倒し、人を抑圧してこそ得られるものこそが本来の欲望と信じるように転換される。

 この小論文では「交換」の形態を深く分析した上で、そこから現在の国民国家・資本主義が生まれ、その体制が「交換」に根ざしているから容易に変えられないことを示す。

そして、人間の自然的欲求を創造するという肯定的な目標を追求することで、「交換形態」の方向性を逆方向にし、そのことによって、がんじがらめの現在の体制を変革していけるのではないか、ということを提案する。転倒の転倒である。
説明しよう。

三種の交換

 経済人類学者のカール・ポランニーは「制度化された過程としての経済」という論文で、交換には3種類あると指摘している。
 人類は交換するときに、このうちの一つの形を取らないとどこか不満が残る本能があるようだ。それは根本的に他人からいただいたものに「同等物」「等価」を返さないと気が済まないという本能だ。
 もらいっぱなし、奪いっぱなしでいることは、個人の心情的に、あるいは、社会の統治上、許されないのだ。「妥当な呼応行為」「同等物の返還」「等価交換」が求められる。
 この交換は次の3つだ。

(1)贈り物をしたら返す、という交換。互酬制
(2)力づくで収奪もできる、ただ、収奪をし続けるのは困難なので、再分配も行う。中心への拠出=再分配。
(3)貨幣による市場交換。商品→貨幣

 (1)のもらったら返す、互酬制というのが一番の基本な交換形態になる。


 次に(2)「奪う」という力による収奪が起こるが、(1)の互酬制を元に、奪うだけでなくて、贈り物を返せ、と言い出す民が出てくる。それが、収奪→再分配→再度収奪→再分配、という不思議な交換が生まれる元になる。原型が共同体の長だ。この交換は本当に「同等物の返還」か危ういので、収奪する側は「同等」だと命がけで説得するのである。

 最後に(3)貨幣による市場交換である。共同体と共同体の間の交換が広がっていくと、複数の共同体間での交換を一元化して、そして慣習的に同じ交換を繰り返すのではなくて、その度に「同等」交換にしたいという「商人」が生まれる。この共同体間の交換を等価にする働きを持っているのが「貨幣」だ。「一般的等価交換物」の地位を占める。

(なお、交換以外には人々の間で何もやり取りは起きないのか?というと、実はある。
ただ贈与する、
ただ略奪する、
ということだ。これは実際には自然界の生物が普通に行なっていることである。)

禁止され続けた貨幣を用いた市場交換の全面化

 重要なことは、この貨幣を用いた市場交換は、人類の長い歴史では強く抑制されてきたことだ。「地位」に基づかない格差を生み、社会不安を起こすことからである。

よってこの貨幣による市場交換が全面に出るのには、人類は18世紀辺りからの西欧を待つしかなかった。伝統的な貴族封建領主の地位が崩れたのだ。一方でプロテスタンティズムが個人の善を意識させ伝統の欺瞞さを批判した。一方ではイギリスやフランス絶対王政の統率が、伝統的な貴族封建領主を叩き力を弱くさせた。

その権力の転換のなか、商人が土地を「商品」とすることを許した

 人々と人々の互酬的な交換が、貨幣を通した市場においての交換に変化した。つまり、「商品」を通した関係のみを通して、人と人が関係し合うことが強く意識されるようになった。「物象化」と呼ぶ。

必要なものは「商品」として得ることが中心となった。日々の生活に使うもの、そして、土地や労働力、さらには貨幣までが金融資本による「商品」と化した。

人類の歴史上、これは、ほとんど社会的に許されなかった事件だ。許されなかったのは、人と人の共同体、地位に基づく社会階層、そして人間と自然の間の代謝を根本的にぶっ壊し、社会不安、生活環境の完全な破壊につながる恐れがあったからだ。

マルクスが見た資本制の根幹

 (3)の貨幣による市場交換においては、貨幣と商品と永遠に交換し続けていくことができる。これを価値転換という。
 さらに、まず貨幣を用意して、生産財や原料などと交換して、それを商品として市場で販売して、また貨幣を得ることもできる。
 うまくいけば、最初に用意する貨幣より、最後に得る貨幣の方が多くなることがあり、これを単独の商人の視点から見ると「利潤」といい、社会全体で見るときは「剰余価値」という。(マルクス「資本論」)

 より多くの貨幣を求めようという資本の動き。
 資本の動きとは、便利な「貨幣」を介した交換を市場で行うときに、必然的に起こる「二つの交換」のために起きる。ひとつは「買う交換」である。もう一つは「売る交換」である。交換の一方は「貨幣」なのだから、これは必然だ。ここで、貨幣を「G(Geld:money)」とし、代わりに交換されるもの・サービスなどをまとめて商品「W(Ware:Commodity)」とすると、この二つの交換はこう表される。

 「買う交換」 G→W (貨幣で商品を買う)
 「売る交換」 W→G (商品を売って貨幣を得る)

 あとで詳しく触れるが、資本の動きというのは、この二つの交換の間で価値転換が起き、買った時より高価で売れるのではないか、という現象を追求したものといえる。
 つなげるとこういう交換になる。

 「買う交換—(価値転換)—売る交換」 G-W-G’(G<G’)

 そう、資本の動きとはこの「G-W-G’」なのだ。そこではいつも二回の交換が対になっている。

 「この儲け主義」と批判する前に、じつは貨幣を用いるとこの交換をせざるを得なくなるという現実をよくみよう。資本の制度と言うのは、「資本主義」というように選べるような「主義主張」では無くて、貨幣を用いる交換を続けるために出現してこざるを得ない「必然の制度」なのである。

「資本主義め!」という倫理的であるかのような批判をする前に、その「必然」をよく見つめてみよう。それは「共産主義」とか「社会主義」とか選べるものとは違う。

 ただ、国家が今まで貨幣による市場交換が全面化するのを禁じていたのに、近代国家は資本制度を採用することを選んだ。その意味では、国家が資本制を選ぶことを「資本主義」と呼んでいいのかもしれない。

(筆・浅輪剛人)


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