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私なりの絶望の震災 2

 転勤先は自分の地元県にある中規模の港町だった。

 そこには絵に描いたような激務が待っていた。冷たい海風に吹きさらされて白い息を吐きながら仕事をした(ちなみに私はいわゆるホワイトカラーだ)。早朝から深夜まで働いた。土曜も日曜も正月もなかった。

 特に私を絶望させた要因の一つは、その職場が、私の経験も私の(数少ない)人より抜きん出た能力も、一切必要としない職場だったことだ。

 人脈がない、文化が異なる(大げさに聞こえるかもしれないが、似たような経験のある人には通じる表現だと確信している)、ほとんど外国人のような人々に囲まれて、自分が自分でないような、それはある意味では「パワハラの頃」と似たような居心地の悪さに、毎日身も心もヒリヒリさせながら過ごす毎日だった。

 年の近い、意思疎通の苦手な同僚に仕事を教えてもらった。仕事内容はと言えば、田舎でよく見る権益成金企業に、主に「いびられる」仕事だった。

 岸壁での仕事には、トレッキングのために買って10年以上前から愛用しているモンベルの黄色いGore-Texのレインウェアが大活躍した。雨が降ろうが雪が積もろうが山のように震災復興関連の資材が押し寄せる埠頭で過ごす毎日。まさかお気に入りのレインウェアを震災後の岸壁の海風に晒すことになろうとは、20代の頃から懇意にしていた先輩と(あれは30歳くらいだったか)福島県の安達太良山に登るためにそれを買った頃は微塵も想像していなかった。

 やはり詳細を記す気分にはなれないので結論から言うと、異文化・陰湿な客・意思疎通の叶わない同僚に囲まれた疲弊によって、私は半年でその暮らしにギブアップすることになった。2014年5月、やはり頼りにならない仙台の町医者に診断書をもらい、会社を休職することになった。

・・・ ・・・ ・・・

 前置きが長くなってしまったが、実はまだまだ前置きが続く。

 この話の本当の始まりはそこからさらに3年前に遡る。

 東日本大震災の起きる2011年である。

つづく

Photo by Steven Pahel on Unsplash


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