見出し画像

ダンススタディーズを観て思ったこと「美しい自由」

2/27、東山青少年活動センターで行われた『ダンススタディーズ1#6』修了公演を観てきた。

ダンス初心者も含む8名のダンサーによるコンテンポラリーダンス。

とても面白かった。

会場アンケートにかなり長文の感想を書いたのだけど、後になって書きたいことが出てきたので追加でここに書きます。

コンテンポラリーダンスって何?

僕もよく知らないけど、調べたら

コンテンポラリーダンスとはテクニック、表現形態に共通の形式を持たない自由な身体表現=ダンスです
(引用元:神楽坂セッションハウスHP『コンテンポラリーダンスとは』)

とのこと。

たしかにすごく自由を感じるパフォーマンスだった。

ダンスに限らず、あらゆる表現において「自由」というのは難しい概念だと思う。

自由を単純に「自分の好きにやっていい」という意味に捉えると、時として表現は無秩序になる。

単に無秩序なものは、やっている本人が楽しくても観客から観て「美しい」ものにはならない。

だから、たとえば演劇であれば、「一つの秩序」に全体をまとめ上げる演出家がいる。

ただ、演出家が「正解」を定め、「私の正解に従ってください」と要求するだけの舞台では、たぶん何かが死ぬ。

役者の中にある「生きたもの」が。

「正解」に従って行われるパフォーマンスは、ある程度美しくは見えるのだろうけど、革命的なものにはならない気がする。

ダンスで言うと、「古典バレエ」は比較的「正解が決まっている」ジャンルのようだ。(間違っていたらごめんなさい)

ちょうど最近読んだ『なにもない空間』という演劇の本に、次のようなことが書いてあった。

古典バレーの踊り手は、ふつう、自分に与えられた動きをあらゆる細部に
いたるまで観察しつづけるように訓練される。つまり肉体を従わせ、テクニックを駆使することによって、動きの中にまきこまれるのとは逆に、音楽の展開に密接に合わせて動きを展開していく。

古典バレエにおいて、ダンスとは「『型』の中で自分をコントロールする芸術」と言えそうだ。

ところがマーシー・カニンガムの踊り手たちの場合、むろん高度に訓練されているのだが、その訓練の狙いは、ひとつの動きが初めてくりひろげられるとき、その中に流れるかそけきものをさらに鋭く意識することにある。そして実際、訓練不足からくるぎごちなさを脱した彼らの熟達したテクニックは、この駆り立てつつ貫流するかそけき衝動に従うことを可能にしているのである。彼らのうちに想念が生まれては流れ去ってゆく、決して繰返されることなく、つねに動きつつ――そのままに彼らは即興的に踊る、そのとき動きと動きの合間に形が生ずる、そしてそこにリズムの正しさ、本物の釣合いがおのずと感得される。すべては自然発生的であり、しかもそこに秩序がある。沈黙の中には、多くの可能性があるものだ――混沌か秩序か、ごったまぜか整えられた型か、どうにでもなりうるものがそこに潜んでいる。見えるものとなった見えぬもの、それは神聖な性格を帯びる。マーシー・カニンガ
ムが踊るとき、彼が必死に求めているのは聖なる芸術なのだ。
(引用元:ピーター・ブルック『なにもない空間』)

ここで言われている「流れるかそけきもの」「自然発生的」なものというのは、僕の思う「生きたもの」のことだろう。

「すべては自然発生的であり、しかもそこに秩序がある」。

つまり、「『型』をおさえた上で、『生きたもの』を殺さない」。

秩序と混沌、不自由と自由の「あいだ」にある。

それが表現における「美しい自由」なのだと思う。

前置きが長くなったけど、ダンススタディーズのパフォーマンスにはずっと「それ」を感じていた。

たしかに秩序があるけれど、秩序のなかでダンサーの「生」が死んでいない

「美しさ」とは何かを問い直されている気もした。

古典バレエの美しさには「正解」がある。

『ダンス・ダンス・ダンス―ル』という漫画で知ったのだけど、バレエは踊る人の骨格レベルで向き不向きが決まっているそうだ。

運命に選ばれて生まれてきた人間しかトップになれない。そういう世界。

「正解が決まっている」芸術だから、構造的にそうなるのだと思う。

コンテンポラリーダンスはおそらく、そうではない。

ダンススタディーズのダンサーさんたちは十人十色だった。

それぞれがそれぞれの美しさを踊っていた。

その人の心身でしかできないことをしていた

それは正しく「存在の肯定」、「多様性の肯定」であり、とても現代的な表現だな、と思った。

ここ数年、いろんな部分でポリコレが叫ばれている。

「なぜ映画の主役やモデルはいつも白人なのか」

そういう「正解が決められた美しさ」への批判が増え、美しさとは何かが問い直されている。

理屈は間違ってないと思うけど、「ありのままの自分でいい」というのも安易に感じる。

それは「自由」を「自分の好きにやっていい」と捉えるのと似ている。

あらゆる多様性を無思考に肯定すると、秩序がなくなって、美しさがなくなる

何事も極端なのは良くない。

「あいだ」を取るバランス。そこに本当の美は宿る。

その意味で、ダンススタディーズはとても美しかった。

自由なのはダンスだけではなかった。

観客もすごく自由だと思った。

ダンススタディーズは一時間のパフォーマンスで、観ていて「流れ」を、「見えないストーリー」を感じた。

でもそれは「見えない」のだ。

台詞はほとんどない。わかりやすく何かを説明するようなダンスでもない。

つまり、物語と非物語の「あいだ」にあって、最終的にストーリーは観客が想像するという自由に委ねられている。

もちろん、ストーリーをまったく考えずに鑑賞するという自由もある。

これは普段、物語のあるフィクションに慣れている僕には新鮮だった。

台詞や物語が明確なフィクションであれば、受け手にも解釈の余地はあるけれど、8~9割は作品側でストーリーが完成している

でも、ダンススタディーズのストーリーは感覚的に半分以上、観客が想像/創造するものだった。

創り手と受け手の「共作」という性質が強い。それが面白かった。

また、観客による「創造」も、おそらく全観客それぞれで違っていた

一人の観客でさえ、三回の公演をくり返し観れば、そのたびに違うストーリーになっただろうと思う。

なぜなら、複数のダンサーが同時に動くシーンも多く、観客がどの席から、どのダンサーのどの部分に注目するかによって、見えるものが違うからだ。

「このシーンはここに注目してください」という、視線の誘導も少なかった。

いやむしろ、一ヶ所に視線を集中させないよう意識的に分散させたつくりだった気もする。

鑑賞の仕方にも「正解」がなく、自由

細かい部分をミクロに見るか、ステージ全体をマクロに見るか……

そういうことをずっと考えながら観ていて、こんなに受け手が主体的になれる表現って珍しいし、とても刺激的な体験だと思った。

そんな感じです。

蛇足ですが、これで800円は安いなあ……と思いました。

2000円くらい全然取って良いクオリティでは……と……余計なお世話ですが……。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?