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『おいしいものには理由がある』(KADOKAWA)を全文公開[第三章 海と日本人]

『おいしいものには理由がある』という本の全文公開です。単行本に写真は入っていませんが、note用に入れています。末尾に入っている動画はダイヤモンド・オンライン掲載時のものです。(写真/志賀元清 動画/志賀元清 樋口直哉)

第三章 海と日本人

東北で牡蠣を食べた  〈牡蠣〉宮城県 奥松島水産

数年前、表参道にあるレストランで来日した北欧のシェフの料理を食べた。驚いたのは魚料理で出たノルウェー産のホタテ貝の味だ。聞けば四年物ということだったが、鮮烈な海の味がする身質はきわめて緻密だった。
「このホタテ貝は素晴らしい質ですね」
 席に廻ってきたシェフがおいしさの理由を教えてくれた。
「ノルウェーの海は水温が低いからです。餌となるプランクトンも少ないので、成長がゆっくり。だからその分、身のキメが細かくなる」
 北欧の水域では牡蠣なども同じようにゆっくりと育つため、深い味になるという。その味の記憶はしばらく心に残った。

 かつて日本の水産物は世界でも屈指の品質を誇っていた。今、そう言い切れないのは残念だ。日本近海の水産資源の枯渇は深刻さを増している。クロマグロが絶滅寸前であることはすでに知られるようになったが、あいかわらずスーパーの冷蔵ケースではマグロの刺身が売られ、クロマグロの幼魚(「めじ」や「よこわ」)まで獲られている状況は変わらない。ホッケやサバなど身近な魚も資源量が心配されているし、カツオの資源量も見通しは厳しい。
 最近はおいしいサバが食べられなくなった。理由は簡単で、サバが成長し、大きくなる前に獲ってしまうからだ。
 銚子では一尾七百グラム以上のサバを極上サバと名付け、ブランディングしている。大きく育ったサバはたしかに極上の味だ。こうしたサバだけを食べればいいのだが、実際には漁獲量を稼ぐためにまだ小さく、卵を産む前のものも獲ってしまうことがほとんど。卵を産む前の魚を獲ってしまうのだから、魚の数が減っていくのは当然だ。
 今、スーパーに並んでいるのは水産資源管理の先進国であるノルウェー産のサバである。消費者がノルウェー産のサバを選ぶ理由は、水産資源が適正に管理されているからではない。資源管理された結果、大きく育ったサバは単純においしいからだ。
 二〇一二年と二〇一三年にヤフー株式会社、復興支援室(当時)の長谷川琢也さんに誘われて、東北の牡蠣養殖場を廻った。

 二〇一一年に日本を襲った東日本大震災をきっかけにヤフーは石巻に事務所を置き、スタッフを常駐させている。クリーンで明るいオフィスで働く彼らは『復興デパートメント』(現・エールマーケット)というショッピングサイトを中心に、現地でビジネスを展開している。
 長谷川は軽い兄ちゃんという風貌だが、三陸の漁業復興に貢献しようと、漁師たちと新しい事業を企画したり、一緒に困ったりしている熱い志を持った人物で、地元の事情にも精通している。
 オフィスを出て車を走らせ、一時間あまり。視界に海の輝きが飛び込んできた。
 最初に着いたのは東松島にある奥松島水産だ。遠くにゆるやかな山の稜線が見える。三陸沖の海岸線は入り組んでいて、数えきれないほどの入江と岬があり、訪れた時はまだ、ところどころに震災の傷跡が残っていた。
「北海道の牡蠣って高く売れているじゃないですか。ぎゃふんと言わせたいっすよね」
 三代目の阿部晃也さんから話を伺う。
「昔は自分たちの手がけた牡蠣を北海道などに売っていました。北海道でしばらく育てられたら、例えば厚岸の牡蠣などのブランドになってしまうわけです。北海道出しっていうんですけど、そういうのに疑問があって」
  スーパーで〈宮城産〉と書かれている牡蠣は漁協などが持っている共同施設を通して出荷された形なので、養殖家の違いは表に出てこない。奥松島水産では自前の加工場を持ち、自慢の牡蠣を自ら出荷している。
「この海はね、栄養が良すぎるんですよ」
 栄養が良すぎる?
 宮城県の牡蠣養殖家、畠山重篤氏は『森は海の恋人運動』で世界的にも知られている。 氏は赤潮の発生で牡蠣養殖が被害を受けたことをきっかけに、河川と森に注目し、一九八 九年に植樹運動を開始した。広葉樹の落ち葉からできる腐葉土のなかに含まれるフルボ酸鉄が、海中プランクトンの育成を促進することから健全な海には森が必要である、と説い た。
 そういった話を本で読んだし、メディアなどを通じて聞いてもいたので、なんとなく 「栄養の豊富な海がおいしい牡蠣をつくるんだろうなぁ」と思っていたのだが、どうやら そう簡単なことではないようだ。
「牡蠣の飼育は育てる海域で決まるんですよ。例えば内湾のエリアは栄養が豊富、潮の流 れの速いところは栄養が少ない。だから、ある程度の大きさに育ったら潮通りのキツイところに出して、あえて固めるんですよ。そうすると良い牡蠣に育つんです」
  潮の流れの厳しいところに牡蠣を運ぶと、流されまいといくつかの牡蠣がくっついて固まる。密集していると一つ一つの牡蠣が摂取できる栄養は減るので、その分ゆっくり育つ。
 この作業は養殖家のあいだでは抑制と呼ばれているようだが、栄養素の少ない海域に持っていったり、海からとりだして日光に当てるなどしてスパルタ式で牡蠣を鍛える(?)期間で、養殖家によってやり方は様々だが、多くの人がポイントに挙げていた。

「出荷前になったら今度は内湾に移して、太らせるわけ」
 なるほど。ノルウェーなら環境に任せるだけでおいしくなるかもしれないが、日本では人の技術によっておいしさをつくりださなければいけない。日本の牡蠣の味は人がつくっているのだ。
 剝いた牡蠣を口に入れる。嚙むと清冽な旨味が広がり、苦みは少なく、じんわりと甘い。こうして味わうとノルウェーの牡蠣の味にも決して負けるものではない、と思う。

 東松島を後にして万石浦を抜け、女川に向かう。女川は海岸線の入り組んだ牡鹿半島の根元の湾で、川が流れ込む静かな入江だ。車から降りると、両側には深い冬の緑色の山が連なり、湖のような穏やかな海が広がっている。
 株式会社マルキンの鈴木真悟さんの案内で、船に乗り込む。マルキンは明治時代からこの地で牡蠣を育て、昭和五十二年からは女川の一大産業ともなった銀鮭の養殖を最初に手がけた会社だ。二〇一七年からは持続可能な養殖へ向けて改善に取り組み、水産養殖管理協議会(ASC)認証取得を目指している。鈴木は持続可能な水産業を意識する若手のリーダー格だ。

「女川から流れ込みはありますが、量は少なくて影響はあまりないと思います。入り組んだ半島の奥に位置しているので、どちらかと言えば『静かな外洋』みたいな感じです」
 漁場に到着して、延縄を引きあげるとムール貝がびっしりと大きな黒い塊になっていた。
 この塊を崩していくと、中から牡蠣が姿を現す。貝殻からつるりと吸い上げると、塩気とともにかすかな清涼感のある苦みがあった。
「本当は春になると、もっと身が張っておいしくなるんですよ。需要が......鍋料理とかといった先入観があるので、売れるのはやっぱり冬になってしまうんですが」
 牡蠣の旬は冬とばかり思っていたが、本当の旬はどうやら違うらしい。その後、春の桜が咲く頃に牡蠣を取りよせて食べてみたが、養殖家が言っていたことの意味がわかった。
 その後、南三陸の漁協を訪ねてから一泊して、翌日は気仙沼唐桑、岩手県広田湾と廻った。気仙沼は養殖家の好みなのかあっさりとした味、震災前に築地で高値がついていた広田湾の牡蠣は脂っぽいほど濃厚だった。
 結果、わかったのは『牡蠣の味には育った海の差が出る』というのは本当だ、ということだ。育てている牡蠣の品種は同じだが、それぞれ味が違うのである。個体差もあるが、 塩味、旨味、脂分、苦味の割合がすべて異なっていた。

 一つだけ言えることは東北の牡蠣はおいしくなった、ということだ。その理由として考えられるのは震災の影響である。
「たしかに昔よりも牡蠣の生育が良くなった気がします」とある牡蠣生産者が話してくれ た。「それは震災で生産者が減ったからだと思います。それまではたくさんの養殖家がい い場所を奪い合うみたいにして、牡蠣を育てていたんです。共同で出荷する場合には単純に量で収入が決まります。そうするとやっぱり生産者としては出荷量を増やしたくなるの で」
 震災前の状況について濱田武士氏が『漁業と震災』という著書のなかでこう分析している。バブル崩壊以後円高傾向が続いたことで輸入圧が強くなった結果、『カキについては、 養殖業者が徐々に減り、残った経営体が空いた漁場を使って生産を拡大したため、生産量 については維持あるいは拡大に繫がった』(『漁業と震災』みすず書房)。
 以上のことから推察されるのは、こういうことだ。共同で出荷されていた宮城の牡蠣はこれまで味よりも量が第一に優先されていた。しかし、東日本大震災をきっかけに宮城の 牡蠣養殖の形は変わった。量から質への転換が図られたので、その品質は向上した。結果として僕らはおいしい牡蠣が食べられるようになったのだ。

 夜、石巻の駅前を歩くと、商店街のシャッターは閉まっていて、歩く人々の姿も少ない。
 駅からほど近いところにある大型ショッピングモールの駐車場はそれなりに車で埋まっている。震災によって寂れたのか、あるいはその前から荒廃の気配が潜んでいたのが、判断できない。
 漁業の産業規模は決して大きくないけれど、漁業が果たす役割は大きい。例えば牡蠣は海をきれいにするし、魚付き保有林などを含んだ漁村の景観はかけがえのない宝だ。

 東京海洋大准教授の勝川俊雄氏は『日本の魚は大丈夫か』という著作のなかで、漁業先進国が採用している漁協ごとに割り当てられていた漁獲高を個別に割り振る方式に切り替え、資源管理と付加価値を高める方法を徹底しつつ、新しい水産モデルを創出することを堤起している。水産政策に詳しい、アジア成長研究所客員主席研究員の小松正之氏なども同様の意見だ。
 東日本大震災以後の漁獲圧の減少によって、東北には水産資源が戻ってきた。漁を控えれば水産資源の減少が食い止められることが図らずもわかった格好だ。ところが先に引用した『漁業と震災』の濱田氏はノルウェー式の漁獲枠を導入することについて否定的だ。そうした主張は諸外国の好調な部分のみを捉えて、資源管理の議論を矮小化していると指摘し、漁協を中心とした漁村文化を第一に考えなければ、海が荒れてしまうという。
 どちらの意見にも理があるし、答えはすぐに見つかるものではない。牡蠣の養殖に環境と人の腕の両方が必要なように、海という資源と人という資源、おそらくどちらも必要なのだろう。
 三陸を歩きながらこんなことを考えた。日本の漁業が転換点を迎えていることだけは間違いない。これまで東京という巨大な都市が消費する食べ物を生産してきた東北では、質よりも量が優先されてきたことは否めない。例えばそこで生産される海苔はコンビニエンスストアのおにぎりに使われ、わかめもまた同様にインスタント味噌汁の材料になった。牡蠣も同じだ。牡蠣の消費減少を食い止めてきたのは、業務用に出荷されている冷凍されたフライ用の半調理済み食品だった。
 でも、時代は変わる。もちろん経済合理性と折り合いをつけることは重要だが、人口減少社会を迎えるなかで量を追求する時代は終わりを告げようとしている。食を観光資源として世界から人を招き入れたいのなら、僕らも普段からおいしさを求めないといけない。僕らがおいしさを求めれば、腕のある生産者はそれに応えてくれるはず──僕はそんな風に考えている。今のところは。

また海に出る     〈海苔〉宮城県 アイザワ水産

 茶髪の若者が顕微鏡をのぞきこんでいる。ここは大学の研究室でも、電子部品の検査場でもない。プレハブの作業場だ。T シャツの袖からのぞく腕は筋骨隆々とし、顔はよく焼けていて、学者や研究者には見えない。
 彼は海苔漁師なのだ。
 彼の名前は相澤太。東松島で代々、海苔を養殖してきた家に生まれ、彼は三代目になる。

 海苔はよく外国人から黒い紙のようだ、と揶揄される。それは言い得て妙で、板海苔は江戸時代に紙の製法を応用し、つくられたものだ。時が過ぎ、昭和二十四年、イギリス人のドリュー女史が海苔の生態の謎を解明したことで、養殖が可能になった。品種もアサクサノリから生育が早いスサビノリに転換するなど、生産量は増えていった。
 八十年代、海苔業界に大きな転換点が訪れる。コンビニエンスストアの登場と、おにぎりの発売である。それにより業務用用途での需要も増えていった。
  しかし、食生活の変化もあり、家庭での海苔の消費は落ち込み、さらにバブル崩壊以後、贈答用の需要は低迷する。業務用の海苔は価格競争に巻き込まれ、単価は下がる一方。そんな状況で海苔を仕事にしていこうという人も減っていった。
 彼の海苔とは二〇一二年に開催されたある食のサミットで出会った。東北から集められた食材の一つに相澤の海苔があり、その味に驚かされた。パリパリとしているが、口に入れるとほどけるように消えてしまうのだ。後にはじんわりとした旨味だけが残る。
 僕らが普段コンビニエンスストアで買うおにぎりに巻かれている海苔は、もっとしっかりとしていて口のなかで溶けてはくれない。
 このふたつの違いはどこにあるのか?
 それを知るために収穫の冬を待って、東松島にある相澤のところを訪れた。まだ日も昇りきっていない早朝、船に乗せてもらう。これがとんでもない体験だった。
港を出るのは夜明け前。漁師たちはドラム缶にくべた火で体を温めてから海に出る。
 寒風吹きすさぶ船上、水しぶきが飛び散る。見渡す限り、海である。水平線とかすかに見えるブイを目印に船は進んだり、止まったりを繰り返す。筏に繫がれたロープを引きあげると、そこには海苔がびっしりと垂れ下がっている──のだが、のんびり見物している 余裕はない。
  とんでもなく寒いのだ。どれくらい寒いか、というとカメラのレンズに飛んだ水滴がたちまち凍ってしまうほどである。足下から上ってくる海水を避けるのにも精一杯だ。

 船が海苔で一杯になるまで、漁場を巡って筏のロープを引きあげていくのだが、積まれた海苔の重みで次第に船が沈みこんでいき、足下からも寒さが襲ってくる。
「......なかなか辛い作業ですね」
 僕が感想を述べると、
「東松島は寒いですからね」
とさらりとした調子で相澤は応えた。海苔漁師は寒さに強くないと務まらない仕事のようだ。
 この日、摘んだ海苔は一番摘みと呼ばれる今年最初の海苔。最もやわらかく品質が高い。この後、二番摘み、三番摘みと繰り返し収穫するにつれて海苔は徐々に歯ごたえを増していく。
 摘んだ海苔は素早く洗浄され、細かく砕かれる。
「海苔は鮮魚と同じ。一気に締めなければおいしくはならない」
 と相澤は考える。その後、熟成という工程を経て、板海苔に加工される。今では相澤は東松島の海苔養殖家のエースだが、当初は海苔漁師になるつもりはなかった。
「中学、高校と『やるわけないっちゃ』って思っていて。友達とかもみんなやらないって言っていましたし」
  高校時代は「めんどくせえ」とか「ダルい」が口癖だったという相澤は卒業後、九州の 種海苔の会社に修業に出される。そこで半年間、漁業者との付き合いから、海苔の生理学 までみっちりと学んだ。
「九州に行って自分に雷が落ちたんです」
  はじめて宮城を出て、感じたことのない暑さを経験した、という相澤はそこでお年寄りが元気なことに驚いたという。彼らは朝から海に出て、夕方陸に戻ると、別の仕事をして いた。相澤が疲れて腰を下ろしていると〈なにしてんだ〉と声をかけられた。
〈ほら、仕 事に行くぞ〉
  疲れて動けないんです、と相澤が音をあげると、
〈しょうがないなぁ。じゃ、休んでろ〉
 と言い残して、彼らは仕事に行ってしまう。体力のない自分が情けなかった。
 ここで高校時代、なにを面倒くさいなどと言っていたのだろう、と生来の負けん気が顔を出す。根性を入れ直そう。
 そうして半年間の修業生活がはじまった。 学生時代、机に向かったことなどなかったが、海苔を育てるにはその生態を知る必要が あった。品種による遺伝子の違いから海苔の生理学まで、相澤は必死に勉強した。 地元に戻った相澤はやれる、という自信に満ちていた。ところがそこに立ちはだかったのは経験の壁だった。
 海苔は一年に一回、五十年やっても五十回の経験しかできない。それでは自分より経験が上の人たちに追いつくことはできない、と相澤は同業者の失敗と成功を分析しはじめた。
「漁場と育成方法のデータをかき集めました。そのあいだ俺、悔しくて自分の船の風よけを三回くらい叩き壊しましたもん」
 海苔の種付けは顕微鏡を使ってする精密な作業だ。多く発芽する種や、少ない種...... 様々な品種のなかからその年に最も適したものを選び出す。発芽量が少ない種は、ロープに薄く付着する。したがって日当たりがよく速く生長するが、シーズンが進むにつれて収 量は減っていく。逆に発芽量を多くして厚く生やせば、光合成がしにくくなる分、生長は 遅くなるが収量は多い。 また海の栄養状況も考慮する必要がある。栄養状態が良ければ発芽が少ない種でも収量 を期待することができるからだ。日照条件や降雨状況、海苔漁師は先を読んで種を選び種 付けをするのだ。 種を海に放ってからも、海苔の面倒をいかに見るかによって出来映えに差がでてくる。
 育苗ではノリ網を一定の時間、海の上で乾燥させる。干出と呼ばれる作業で、網についた汚れを振り落とし、海苔の芽を強くする。どこまで乾燥させるかは湿度で判断する。

 九月終盤。朝霞のなか、船から手を伸ばし、網を引きあげる。
 湾には見渡す限りの無数のブイが浮かんでいる。夜明けの海は穏やかで、夏の終わりとはいえ、船上は潮風が吹くと肌寒いくらいの気温である。
 網を持ち上げると海水の重さがわかる。この重さで今年の海の状態がおおよそ把握できる、と彼は言う。内湾のため台風や川水が増えたりするだけで、海の状態は大きく変わる。
 すべての網を持ち上げる作業は重労働だ。徐々に日が昇ってきて、視界が晴れてくる。今度は船から伸ばしたパイプで海水をかけ網を洗う。藻や水垢が網から落ち、海苔の芽に栄養を与えることにもなる。水の勢いが強すぎると海苔の幼芽が流れてしまうし、弱いと意味がない。
 海を渡る風が水面に細かな襞をつくり、その一つ一つが朝日を受けて白く輝く。
「海苔は言葉を話さないから、感じなくちゃいけないんです」
 だから彼は海苔と向き合っているあいだ、帽子も被らない。海苔と同じように日に当たらなければ、海苔の感覚はわからないからだ。
 ここからは駆け引きである。ただの海苔ならもう十分。だが、特別おいしい海苔にするためには、厳しくしなければいけない。頑張れ、と相澤は心のなかで海苔に声をかける。乾燥すれば海苔は死んでしまうが、鍛えなければおいしい海苔にならない。
  そして、決断を下してからは一気呵成である。再び船を走らせ、網を素早く海に戻していく。
 この作業は二週間続く。そのあいだ彼はひたすら海苔と向き合う。

 努力を続けた相澤は二十三歳の時、鹽竈神社で毎年開かれている乾海苔品評会で準優賞を飾った。宮城中の海苔漁師たちが腕を競いあう品評会で、優賞者の海苔は皇室に献上されるのだ。
「だけど、それはほぼまぐれです。でも、品評会で二位だったから、さらにいいものをつくろうって気になったんですね。そのくらいの年齢になると他の地域の海苔漁師のことも目に入るようになってくるわけです。それで浜、越えて交流させてもらうようになって」
 品評会が相澤の世界を広げた。そして、二十八歳になった相澤はとうとう優勝の栄冠を勝ちとる。
「そのとき見た目はもういいやって思ったんです。やっぱりもう一回食べたいって思ってもらえるのは味なんで」
 海苔の品評会には「百枚当たりの重さ」という基準がある。東松島では三百二十グラム以上から審査対象になるという。相澤が最初に優勝した年の海苔は三百六十グラムだった。
 業務用として普通に出荷される物なら四百グラムぐらいが普通だという。百枚当たりの重量が増すということは、それだけ海苔が厚くなるということだ。
 問屋にとっては歩留まりも重要である。海苔は割れてしまっては商品にならないので、ずし 業務用は必然的に厚いものになりがちだ。回転寿司などで海苔巻きにして廻す場合、薄い海苔ではすぐにふやけてしまうという問題もある。また、コンビニエンスストアのおにぎりに使う海苔も輸送中、割れないようにするために厚くする必要がある。この厚い海苔が「紙のような」食感の海苔の正体だ。
「自分が目指したのは極限まで薄くて、キメが細かく、口に入れたときにさっと溶けてしまう海苔。そうしてこそはじめてグルタミン酸などの旨味が口に入れた瞬間に感じられ、すぐに吞み込みたくなる。二〇〇九年の品評会に、ルールでは三百二十グラムからのところを三百十九グラムで出してやったんですよ。見た目も味も最高でした。薄くても割れないんです。結果は優賞でした」
 この年の海苔は最高の出来だった。これからもっとうまくいくと思っていた。しかし……。

 二〇一一年三月十一日、東日本大震災。津波によって漁船や加工場などすべてを失い、相澤自身も屋根の上で一晩を過ごした。家族が無事だったことは幸いだったが、仲間には近親者を失った者も数多くいた。
  建物は津波にさらわれ、あちこちに瓦礫が積み上げられた。
 浜には重い空気が満ちていた。再び海苔養殖をはじめるためには海苔の加工場などを含め、およそ二億円の投資が必要になることがわかった。国からの援助はあるものの子供や下手をすると孫にまで及ぶ債務を負わなければいけない。年配の海苔養殖家たちはやむなく廃業していった。
 このままでは浜の衰退は明らかだった。
 相澤の決断は早かった。また海に出る。自分が育った故郷を守るためにはそれしかない。
 三月末には岡山までトラックを走らせて漁具を集めた。生育の早いわかめの種を親交のあった長崎から取りよせ、秋には種付けをした。翌年、海苔養殖を再開するための資金を調達するためだ。
 二〇一二年には三人の仲間と「太漁会」という組織を作った。国の補助事業を受けるために協業体制をつくる必要があったからだ。東京電力福島第一原子力発電所事故にともなう放射能の風評被害とも無縁ではいられない。しかし、相澤に選択肢はなかった。高校を出て、漁師の道を進んだ時と同じように。
 相澤たちのグループは浜で最年少だった。国からの補助には三年間の期限がある。そのあいだ、自分の求める質を追求するのはやめよう、と彼は決めた。補助事業では国が全量を買い上げる。ならばできるだけの量をつくるだけだ。
  翌年には海苔の収穫にこぎ着け、大曲浜の海苔養殖は復活した。段ボール箱の生産者の欄から〈相澤太〉の名前は消えた。
 ある時、浜の漁師たちが集まる会合に出ると古老がしみじみとした口調で言っていた。
 「お前たちは若えから、なんでもできるっちゃ。がんばれ」
 若いものになにができるっちゃ、と言われてからずいぶんと年月が流れていた。自分が仲間を引っ張らなければいけない、と彼は思った。後輩たちも指導し、メディアから頼まれれば取材にも応えた。ワークショップや海苔セミナーも開いた。
「俺ら漁師が、食べ手の皆さんと直接会って、伝えなくちゃならない」
壇上で相澤は言った。日本にいる海苔養殖家はおよそ四千人。それが毎年百人単位で減少を続けている。家庭用の消費量も毎年のように落ちている。
 三年後、使命を終えて「太漁会」は解散する。最終年度は最高の水揚高を達成し、仲間はそれぞれの道へ進んだ。海苔に相澤太の名前が戻った。
 ある海苔問屋は焼海苔のパッケージに大曲浜の地名と相澤の名前を載せた。どこの浜で採って、誰がつくったのか、わかる海苔が売られるのは画期的なことだった。現場の映像をつけて販売すると、予定量は一時間半で完売した。
「食べた人の一生を変えるような旨い海苔をつくりたい」
 相澤はそう夢を語り、今日もまた海に出る。
 海苔の引き上げは早朝の作業だ。冷たい風が吹いて、船が揺れる。日が昇りきらないうちに終えるのが理想である。収穫の時、気温はマイナス八°C。すべてを奪っていった海と同じ海が、彼に夢を見ることを許してくれる。

江戸前の佃煮     〈佃煮〉東京都 遠忠商店

 最近、東京でもマルシェ=屋外のスペースを使った市場が人気だ。そうしたイベントがあると日本橋の佃煮の老舗、遠忠食品は積極的に出店している。エプロン姿で佃煮を勧める髪の薄い中年男性がいたら、それは社長の宮島だ。
 大学卒業後、大阪の市場で働き、東京に戻ってからは販売先だった神奈川の会社でルートセールスを経験した。その後、アメリカで働きながら商売を学び、家業である遠忠食品に入った。
「俺さ、これが商いの基本だって、つくづく思うね」
  そう語る社長の宮島一晃は日本橋生まれの日本橋育ち、生粋の江戸っ子だ。
「マルシェで佃煮を売っていると、小さな子供から『佃煮ってなんですか?』って聞かれることがあるのよ。それくらい食べなくなっちゃったんだね。それでも試食してもらうとよく売れるんだ」

 宮島の店、「遠忠商店」は水天宮のほど近くにある。宮島が子供の頃は一階が工場で、二階が事務所兼住居だったので、佃煮の匂いを嗅ぎながら育った。
 その頃、宮島の家は景気が良かった。佃煮もよく売れていたし、日本ではじめて商品化したという味付け豆もやしが大ヒットしたからだ。しかし、他社が続々と類似製品を世に送り出してきたこともあって、彼が中学にあがる頃には「もやしバブル」は弾けていた。
「子供の頃は父親に同行して築地に通ったのよ。佃煮を納品しに行くと、業者が手元のお茶にスプーンで佃煮を落とすの。そうやって質を見るのね。かさ増ししていると佃煮は溶けてしまうけど、ちゃんとした佃煮は溶けないって訳さ」
 事務所で宮島から話を聞く。建て替えたビルの一階は遠忠直営の自然食料品店になっている。このあたりの景色もすっかり変わり、親子丼で有名な『玉ひで』の建物が当時の面影を残すばかりだが、人々の営みは変わらない。
「うちの店のお客さんはベビーカーを押したお母さんばっかりよ。このあたりの人に聞くと、デパートに行かないと食べ物が買えないって言うんだ。それで知り合いの行商の人に来てもらって鮮魚を売って、野菜も毎日、農家から届けてもらっている」
 二〇一〇年に開いた直営店はオープン当初は苦戦したが、今では黒字に転換、地元に定着した。
「本音を言えばさ。佃煮も食べてもらいたいんだけどね」
 宮島は笑う。高度成長期以降、江戸前の佃煮は減少の一途をたどっている。
「江戸前の佃煮はどうして少なくなったんですか?」
「結局さ。うちでも昭和四十年代くらいまでは浦安にあさりのむき身工場があったわけ。でも、東京湾の漁師たちが漁業権を放棄しちゃったから獲る人がいなくなっちゃった。当然、うちの工場もなくなっちゃって、佃煮の原料も輸入に替わっていった」
 東京オリンピックを境に日本は急速に工業化を進めていく。昭和三十年代から五十年代にかけて、埋め立てなど湾岸の開発も進み、海も汚染されていった。
「昔の生活排水も問題だったけど、干潟がなくなるのが一番いけないらしいんだよね。人工干潟とか最近は試みられているけど、大学の先生に言わせるとやっぱりちょっと違うらしい」
 意外だったのが六十年代から現在まで、東京湾の魚類漁獲量はそれほど変化がない、ということ。減ったのは主に佃煮に使う貝類と藻類(海苔の類)なのだ。
「江戸前の海苔を使った佃煮をつくりはじめたのは俺の代から。なんで目の前に東京湾があるのに、そこで獲れた材料からできたものがないのかな、と疑問に感じたの。親父に聞いたら『獲る人がいねえんだから当たり前だろ』って言うわけ。考えてみれば当たり前なんだよね。東京湾の漁師は次々と漁業権を手放していたわけだから。でも『どうやったらできるのかな』と、いろんな漁協に連絡をした。だけど、最初は門前払い」
 公害のイメージの強かった東京湾も、宮島が材料を探しはじめた頃には工場排水の改善や下水道の完備などで、かなりきれいになっていた。漁協に出入りしているうちに宮島は個人で細々とあさりやちりめん(イワシの稚魚)を獲っているという漁師の存在を知った。
 東京都の漁師は羽田などにわずかに残っているだけだったが、神奈川県や千葉県などに漁師町が残っていた。
 ある時、宮島が訪れた小さな加工場に大量のあさりが積み上げられていた。 〈これをどうするの?〉 宮島が聞くと漁師は〈どうもこうもありゃしないよ〉と咳払いをした。〈これは市場で 引きとってくれなくて余ったもん〉
 江戸前の漁業が衰退するにつれ、東京湾の水産物を扱う引き手が少なくなっていた。目の前のあさりは良さそうな品物だった。大きさの割に膨らみもいい。
〈それならうちが買いますよ。単価はいくら?〉
宮島がそう切り出すと、漁師の顔が曇った。スーパーなどの安売り競争が激化するなか、余った水産物を安く買い叩く業者がいたのだ。漁師が教えてくれた単価は輸入品の三倍ほどだった。
 しかし、採算は度外視だ。
〈じゃあ、それでいいです〉
 宮島はバッグから現金をとり出すと、数えて漁師に渡した。今も昔も漁師たちとは現金取引が鉄則だ。彼らは驚いていたが、言い値で買ってくれる業者はそういないらしい。何度かそうした取引を繰り返すうちに信頼を得た宮島は、木更津で海苔養殖をしているという漁師たちを紹介してもらった。
〈あそこはまだ盤洲干潟が残っているから海が豊かなんだ〉
 ある漁師がそう教えてくれた。
「朝五時頃さ、量りと段ボールを車に積み込んで、長距離輸送のトラックに混じって車を走らせるわけ。東京湾アクアラインなんて通ってない頃よ。港につくと漁師たちが小さな作業場で、陸にあがった海苔を脱水機にかけている。そこまでが漁師の仕事で、あとはこっちの仕事。海苔を段ボールに詰めるんだけど、海苔って水分を含んでいるからとにかく重いのよ。どうしてバラ干しの海苔が普及したのかよくわかったよ」
 木更津の漁師はその海苔を海苔工場に卸していた。工場で加工された板海苔は高級寿司店に卸されていた。佃煮に使うのはもったいないランクの生海苔だった。
〈これってさ。つまり板海苔に加工する前にうちが材料をわけてもらっているわけじゃない? それで損はしないの?〉
 宮島は漁師に聞いた。
〈大丈夫です。宮島さんのとこはいつも江戸前のものを買ってくれてるって話じゃないですか。お互い様ですよ〉
 漁師は答えた。
「支払いは今でもそうだけど現金。一年分の量を仕入れて冷凍しておくわけ。海苔が終われば茎わかめ。その後は横須賀の昆布。あさりも良くなってくるから、仕入れちゃうよね。だからうちは結構、大変よ。でも、東京湾の漁師を買い支える意識っていうかな......うちは『仕入れてやる』なんて全然思ってないもの。『採ってもらう』っていうか、彼らだっ て現金になったら当然、いいじゃない」
 宮島は笑う。
 「でもね。輸入のバラ干しとは味が全然、違う。やっぱり生海苔から炊かないとダメ」

  遠忠食品の工場は埼玉県越谷にある。年季が入った工場は広々として、醬油の匂いが漂っている。佃煮の製造工程は材料を鍋に入れて、炊いていくだけのシンプルなものだ。

 材料の海苔は塩水で洗浄され、ザルにあがっている。醬油は近藤醸造の国内産丸大豆醤油、鹿児島県産の粗糖、国産のサツマイモを原料とした麦芽水飴、それに原材料表記で発酵調味料となっているのは、味の一釀造が製造している『味の母』という酒の風味とみりんの旨味があわさった調味料だ。
「今は蒸気釜を使っているところが多いけど、うちは直火炊きの釜を使っている。焦げるから大変だけど、やっぱりおいしいんだよね」
 火が見える工場は今では少なくなった。蒸気釜というのは工場で多く使われているが、蒸気を熱源として加熱する鍋だ。鍋全体の温度が均一であることが特徴で、焦げづらい。
 直火釜というのは家庭のガスコンロと原理的には同じで炎で鍋を加熱する。そのため温度管理が難しい。
「どれくらい加熱するんですか?」
「二時間くらい。でも、海苔の状態によって変わるけどね」
 直火炊きの釜は下にレンガが組まれ、そこに大きな鍋が載せられている。二つの鍋に火をかけ、海苔を投入する。海苔は毎回、柔らかさが違うので、二つの釜で炊くことで煮上がりを揃えるのだ。
 香ばしさが利点の直火釜だが、反面目が離せないということでもある。焦げるリスクと隣り合わせなので、職人は釜につきっきりである。
海苔の佃煮のいい香りが工場内に漂う。日本人なら炊きたてのご飯が欲しくなる香りだ。
「こういう伝統的な方法は残していくべきだと思うよね。俺らがやらなくなったらもうやる人もいないと思うんで。直火と蒸気釜では対流が違う。直火だと側面に触れるようにして回り、醬油の香りが素材にのるんだ。ただ、やっぱり技術的には難しいんで、職人の育成が課題になる。今の職人は前任者の下に五年張り付かせて、身体で覚えてもらった。後は目利きね」
「腕だけではなく目も重要、と」
「そう、前の職人がよく言っていたけど、例えば小魚なんか一月と三月では全然違うわけ。それを微調整できるのが職人技。それっていうのはいろんな場面に出くわして、経験しないと身につかない」
 この日は結局、炊き上がるまでに三時間かかった。職人はそのあいだも佃煮の面倒を見続け、火加減を微妙に調整していく。炊きあがった佃煮は台に移し、冷ましながら混ぜあわせていく。
 「うちの佃煮と大手の大量生産品のなにが違うかっていうと......そうだ。ちょっと待ってて。今、スーパーで大手の佃煮を買ってきてもらうから」
 事務所に移動して、ちょっとした実験を見せてもらった。瓶に遠忠食品の佃煮と近所で買ってきた大量生産品のものを同じ量(今回は十グラム)ずつ入れ、お湯を注ぐ。攪拌してしばらく置くと、違いは一目瞭然だ。大量生産品に対して、遠中食品の佃煮は沈殿物が多い。つまりそれだけ海苔が使われている、というわけだ。

「面白いでしょ。大量生産品が悪いっていうつもりは全然ないんだけど、わかりやすいからさ。海苔の量が全然違う。昔は河岸に行くと仲卸がこういうことをして仕入れる商品を見極めていたわけ。スーパーとかで売っている安いのを食べて、これが佃煮だと思われちゃうのは悲しいよね」
 遠忠食品の製品ラインナップは宮島の代になってから無添加志向、国産志向にシフトした。そうしたなかで国産のザーサイなどのヒット商品も出てきた。
「はっきり言って佃煮は儲からないけど、なくならない食べ物だとは思うよ。実際、食べてもらうのが一番だね。マルシェなんかで売っていると、一回食べてくれた人はまた買ってくれるから」
 食べ物は聞いただけではわからない。実際に食べてみるのが一番だ。百聞は一食にしかず。
 佃煮の名前は東京都中央区にある佃の地名に由来する。江戸=東京のローカルな食べ物だった佃煮が日本全国に広まったことには、明治以降の戦争が関係している。西南戦争で軍用食として製造されたのを皮切りに、日清戦争でも活用され、戦後帰宅した兵士たちによって各地の食卓へと根付いていった。例えば広島は昆布の佃煮の製造が盛んだが、それは日露戦争においてこの地を拠点にした陸軍の需要によって発展したと言われている。
 江戸時代までは「川を渡れば別の国」という意識だった日本に「日本人」という一つのメンタリティが確立されていったのは明治以降。同じ釜の飯を食べるという言葉も あるが、この「日本人」という意識の確立には「米」を「佃煮」で食べるという食習慣の広がりが関係しているのではないか。
 「大変なのは材料の確保だね。あさり、わかめ、海苔、みんなダメになってきている。 色々な意見があるけれど一つには干潟がなくなったこと。もう一つは海の栄養分が減ったことが原因らしい」
 少し前は赤潮のような富栄養化が環境問題になっていたが、今全国各地で問題になっているのは海の砂漠化と言われる磯焼けに代表される貧栄養化だ。貧栄養化は一時期問題に なった赤潮とは逆の現象である。生活や工場排水の環境規制が厳しくなったことや海に栄養を運ぶ里山の人口が減少したことが原因だ。里山で農業や林業が行われなくなると、河川に流出する窒素分が減り、プランクトンや海藻などが育たなくなるのだ。
 護岸工事が進んだことで、海の距離も遠くなった。宮島は海と親しんで欲しいと積極的にイベントなども行い、東京湾を守る活動も熱心にしている。
「どうして江戸前の味を残そうと思ったんですか?」
 最後に僕が訊ねると、宮島は首をかしげてから、どうしてだろうね、と笑った。
宮島がなぜ、江戸前の味を残そうと思ったのか、僕にはなんとなくその理由がわかる気がした。それは彼が日本橋に生まれ、魚河岸で育ったからではないか。つまり、江戸っ子の意地ではないか、と。


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