人のために3
昨日、一昨日の続き。人のためって何だろうという話。
そういえば前回、前々回と「人のため」のネガティブな面ばかりを見てきた気がするから、今日はポジティブな面でも見るかなぁと思う。初日に書いた「ぞわぞわ」じゃなくて純粋に「いいな」と思う人のためってなんだろう、ということである。
まず思い浮かぶのは、「発端が人のためではないもの」なのかなぁと思う。
自分がやりたくてやった。そしたら人の役にたつものができた。そんな感じである。結果的に「人のため」になったパターン。
例えばの話。手でいちいち洗濯するの面倒だな、ボタンひとつ、ぽちっと押したら洗濯できるようにならないかな、と自分が感じて洗濯機ができた、みたいな流れである(実際の洗濯機がどうできたのかは知らないのでこの流れじゃない可能性があります)。
これが「お母さんが大変だから助けなきゃ!自分も一緒にやるとか機械を作るとかしなきゃ!(使命感&悲壮感)」になるとぞわぞわ案件に近付くのかなぁと思う。
仮に発端が「お母さんが大変そう。何とかしたい」だった場合でも。「あ、洗濯する機械考えるの楽しい」とか「汚れが落ちていくの最高ー!」って感じるならそれはポジティブな「人のため」になりそうな気がする。
つまり発端がどうあれ、純粋に心から「自分がやっていて楽しい」のであれば、それはポジティブな「人のため」ということになるのかなぁ。
「人のため」はあくまで結果であって、やっている最中は自分主体。それが健全な姿のような気がする。
昨日は散々ネガティブな面を書いた気がするけれども、それ自体も別に私は否定しているわけではないのである。
お母さんが大変そうなのを見て、「あ、洗濯機を作ろう」と思ったとして。やってみたら意外と楽しくて「自分ってこんなことが好きだったんだな」と気付くこともあると思う。
他人が発端で自分が変わって、そうして自分を知ることも、できることが増えることも沢山あるので。それ自体を悪いものだとは思わない。というかどんな経験であれ、自分が選択してきた結果なので。苦しかろうが後悔しようが、それは全て「良い経験」なのである。他人に振り回されて自分をぼこぼこに変えまくってしんどいのだって、ひとつの経験だし「良い経験」なのである。
ただ、世間で言われている「人のため」は良い面が強調されすぎていて、裏にある「自分を変えることでやっている」という面を見えないようにさせられているというか。本当は自分がしんどいのに、それでも「人のためはいいことだからしんどくても何でもやりましょう」という所がある気がして。
何を選択するかはその人、その人の自由だから好きに選べばいい。でもこれってフェアじゃないよね、と思う。
「人のためって実はこういうことですよ」とネガティブな面も見た上で、「ではそれをふまえて、あなたは何を選びますか?」が自然な形なのではないかなぁ。
それでも自分を押し殺して人のために生きたいと思うならそうすればいい。でもそれは、ただ流されて「そうすることしか知らなかった自分」とは違う。
少なくとも「今自分はどう感じているんだろう?」と見る視点は増えるだろうし。人のために自分を変えることがしんどいなら、やめることもできる。
「人のため」がただただ良いことなのだと頭から信じている時には思いつかなかった選択肢を得ることができる。
これってとても大きいよなぁと思う。だから知識、視点って大事だな、と思うのだけれど。
件の彼も私も。子どもの頃は特に「周りの人のために」と動いて自分をぼこぼこ変えてきて、自分がよくわからなくなったタイプではないかなぁと思う。
それがもう、ずっとやってきたから身に染み付いてしまっていて。今でもそういう場面があればホイホイやってしまうというか、今までやってきたからこそ能力が上がってサラッとできてしまうというか。「まぁ大したことじゃないし」とやってしまう所が結構あると思う。そこはもう、今更なかなか変えられることではないのだけれど(これは特に長男、長女だとあるあるなのではなかろうか)。
私は大人になったし、彼もそれなりに大人になった。そこまで自分に依存してくる人はいないし、自分で選んでいけるようになった。
だからこそ、これからの人生では。彼自身を見つけて彼のやりたいことをやっていってくれたらなぁと思う。まぁ、彼は物語の登場人物なのだけれど。
「人のため」についていろいろ考えた話はこれでおしまい。考えたくて考えて、自分なりに考えきって満足できたので良かったかなぁと思う。
ではまた明日。