トイレのシール物語

いつからだったか、トイレにあまり行きたがらない息子のためにシールを用意した。トイレの壁に紙を貼り、トイレで出たらそこにシールを1つ貼るというものだ。

ご褒美で釣るというのはあまりよくないとも聞くし、正直そこまで効果があるとも思えない(シールを貼るためにトイレに行くという感じはしない)のだが、出た後にシールを貼ること自体は楽しみにしているようで、今も継続している。

さてそのシールなのだが、メインは当時好きだった恐竜で、しかし恐竜ばかりでは飽きるだろうと、ハロウィンやクリスマス等の行事シール、果物やボタン、乗り物等も用意し、その時々で何種類かの中から選んでいる。

最初は紙に貼るのもそこまでこだわっておらず、ただ貼ることを楽しんでいたのだが、段々と息子独自の世界が見えるようになってきた。

最初は貼る場所。ティラノサウルスは前にティラノサウルスを貼った場所の近くに、プテラノドンはプテラノドンの近くに、という感じで、何となく似ているものを固めて貼るようになってきた。

その後、その中でもこれがお父さんでこれがお母さん、のように役割が付け加わるようになってきた。「これはおかあさんで、おかあさんの後に赤ちゃんがついていくんだよ」と少しずつお話が作られていく。

サンタさんシールを貼った時は。「こうやってこうやってこうやって行ってプレゼントをあげるんだよ」とシールの隙間をぬってサンタさんの行く道を教えてくれた。「そっか。みんなプレゼントもらえて嬉しいね」私が言うと

「でもティラノサウルスにはあげなーい」

何でだ!?息子の中でティラノサウルスは悪役なのか?


最近はトイレが上手になり、座ってすぐに出るようになった。相変わらずシールも貼っているわけだが、ここからが長い。

「そのときです!ドドドドドー!とやまがふんかしました。かぼちゃさんがやってきました。トントントンととびらをたたきました。こんにちは!といいました。おうちにはいりました。そのときです!またドドドドドー!とやまがふんかしました。おばけさんがやってきました。トントントンととびらをたたきました。」以下何種類かのもので同じくだりが続く。1話が長い。「また噴火したの!?よく噴火する山だね」「かぼちゃさんいっぱいきたね」私も間に感想を挟んでみたりするしなるべく遮りたくは無いが、しかしお母さんも、やりたいことはいろいろあるのだよ…。それなりのところで終わらせておくれ…。

結局この話の中で山は何度も噴火し、ハロウィンの生き物(?)たちは大集合し、おばけのマラソン大会があり、お面屋さんもやってきて、最終的には誰かの誕生日を祝って終わった。

特に保育園から帰ってきてすぐのトイレで長いお話の傾向がある。息子の中でこの時は長くてもOKとなっているのだろうか。

ところで息子の話。もちろん話自体はその時息子が考えているものなのだが、いろんな絵本が元ネタになっていて面白い。上の長い話だと

山が噴火→『おまえうまそうだな』

ドアを叩いて段々集まってきてお誕生日を祝う→『うさぎさんのたんじょうび』

マラソン大会→『ぶたのたね』

お面屋さん→『とこちゃんはどこ』

だと思われる。それだけ息子の中にいろんなお話が蓄積していて、それを息子なりに消化吸収して組み立てて、外に出しているんだな。

私も物語を考えるのは好きな子どもだったので(何なら今も好き)、息子もその血を受け継いているのだろうか。

トイレのシール貼りをいつまで続けるかわからないが、それをやめてもお話作りは続けて欲しいなぁと母は思うのだった。自分で話を作るって楽しいし、それができるのもひとつの才能だ。これからもなるべく伸ばしていきたいなぁと思う。

しかしそのためには、途中で話を遮るのは良くないな。それなりの長さで終わらせて欲しいが、どう言うのがいいだろうか。トイレに連れて行く度に考えるのである。


ではまた明日。