カエサルと織田信長の死、その後

紀元前44年3月15日

ローマでユリウス・カエサルが暗殺されました。

「カエサルの死」 ヴィンチェンツォ・カムッチーニ

当時、カエサルはローマにおいて最高の権力と軍事力を持っていました。軍歴も長かったため、個人的な戦闘力もそこそこあったでしょう。
しかし護衛がいない時に複数人に襲い掛かられてはどうしようもなかったのです。
カエサルはその場で絶命しました。

カエサル暗殺の報はローマを駆け巡り、キケローの耳にも入ります。
彼はカエサルとは政治的には敵対していたけれど個人的には仲が良かった人物です。

「カエサルを殺したのはグッジョブ」

仲が良かったんじゃなかったのか?

「でも後継者を無傷で残したのはあかん」

この時点でカエサルの後継者として最有力候補だったのはアントニウスという人物でした。

アントニウスはカエサルが暗殺された現場のすぐそばにいたみたいで、やろうと思えばやれたと思うんですが、首謀者の一人が

「カエサルはやむを得ないが、他の人まで巻き込むのはいかん」

と謎の正義感を発露させ、仲間たちも

「アントニウスはマッチョでめちゃくちゃ強いから、下手に手を出すと抵抗されてカエサル暗殺まで失敗しかねん」

ということで妥協したのだそうです。

その結果、生き残ったアントニウス(と実際に後継者に指名されたオクタウィアヌス)はカエサルの遺産と遺志を引継ぎ、暗殺者たちはローマを追われ、戦場で命を落とすことになりました。
キケローの心配は現実のものになったのです。

カエサル個人は死にましたが、後継者の手によって「カエサル政権」は存続し、帝政ローマ(ユリウス・クラウディウス朝)へと続いていきました。
暗殺者たちが本懐を遂げる、つまりカエサルによる独裁を止めるには、カエサルだけでなく後継者(アントニウスとオクタウィアヌス)も殺す必要があったのです。

1582年6月21日

それから1600年くらい後、はるか東の島国で。

織田信長という、当時日本において最高の権力を軍事力を持っていた人物が、護衛がいない時に襲われて命を落とします。

「本能寺焼討之図」 楊斎延一

やったのは明智光秀。

彼は近くに滞在していた信長の後継者、織田信忠もちゃんと始末します。
もし信忠が生き残れば、もちろん混乱は生じたでしょうが「織田政権」は存続。信忠の元に諸将が集結し、光秀は反逆者として討伐されて敗北というコースは目に見えています。

信長だけを殺しても意味がありません(憂さ晴らしにはなるかもしれませんが)。光秀にとって本能寺の変の勝利条件は「信長と信忠を同時に葬ること」だったのです。

というか、そのチャンスが偶然にも巡ってきたから行動を起こした、という順番だったと考えられます。
光秀は信忠を討つ必要性を、ちゃんと認識していたのです。

後継者の重要性

カエサル暗殺と本能寺の変。

どちらも

「当時最高の権力と軍事力を持っていた人物が油断したところを襲われて落命」

という大事件ですが、後継者が遺ったか否かが政権の存続を分けました。

もし謀反をお考えの方がいらっしゃいましたら、参考にしていただければ幸いです。

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