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傷ついた子猫

男は少年を探していた。
紛争の流れ弾に当たって、人知れず亡くなってしまった少年。
男が河原に座って風にあたっていると、ふらふらと子猫がやってくる。

—————

ある男がいた。いささか不機嫌な様子である。
彼はグラスを傾け赤いワインを口に含んだ。
正面には、今日会ったばかりの女が座っている。女はステーキをナイフで切ると、上品に口元に運んだ。

「ええ、その子のことなら覚えています。道端で倒れているのを見かけましたわ。浮浪児で——まぁ、浮浪児なんてあの辺りではめずらしくもなんともないものですが——。ひどい怪我をしていたもので、見るに耐えなかったので……」

「なんだって!?」

男は叫び、眉根を寄せて立ち上がった。

「つまり、あなたは彼を見捨てたというのか!」

「いえ、そんな……見捨てただなんて。私はただ……」

「 ひどい怪我を負っていると知っていながら、何の救いの手も差し伸べなかったことを、見捨てたと言わず何という」

女は少し黙り込んだのち、「何もしなかったわけではありません」とつぶやいた。しかしその声もしりすぼみになって消えて行った。

男は、怒りが収まらない様子で腕を組み貧乏ゆすりをしていたが、やがて立ち上がるとボーイを呼び、多めの代金を支払った。そして女を振り返ると、黙って頭を下げたのち、男はさっと踵を返して行ってしまった。

残された女はひとりため息をつくと、ナイフを置いた。

「これだから、外人さんは嫌なのよ……。何もわかっていないくせに、勝手な正義感だけ振り回さないで欲しいわ」

そして、女も立ち上がるとボーイからコートを受け取り、当然のように代金を支払うことなく店を去って行った。机には、ワインとメインディッシュのステーキがほとんど手つかずの状態で残されたまま残されていた。それを、ボーイは顔をしかめることもなく、手早く綺麗に片付けた。


男は河川敷に腰をおろし、風にあたっていた。まったく、イライラが過ぎてしまえば、あとに残るのは空虚な悲しみだけだった。男はスーツのポケットから一枚の写真を取り出して眺めた。汚らしい格好の少年が、わずかにはにかみながら、カメラに向かって笑いかけている。

生きた証? 彼が本当にこの世に存在していた証拠? 男は自分のそんな考えを鼻で笑った。そんなものはない。彼のような浮浪児には、死んでしまえば、過去の記憶以外に存在を証明できるものなどないのだ。そして、悲しいことに、過去の記憶ほど怪しいものもない。

そう思った瞬間、ふいに吹いてきた風が彼の手からその写真を奪い取り、空高くへと巻きあげてしまった。男は「あっ」と叫び空に手を伸ばしたが、すぐにへなへなと腰をおろしてしまった。手持ち無沙汰になってしまった両手を握り合わせながら、あほな自分を笑い、笑ながらしょうがないことだと諦めた。

暮れかけの日に照らされ、長い影が伸びる。そのひとつひとつの影の中に、彼は少年の面影を見るようだった。彼の最期は、一人さみしく死んでいったのだろうか。それとも、誰か彼を見送ってくれる仲間でもいたのだろうか。街で起こった紛争の流れ弾にあたり、顔にひどい怪我を負っていた、というところまでが男につかめた情報だった。そこからどうなって死に至ったのかは男には分からない。


物思いに沈む男の陰、夕闇の中から、一匹の野良猫がふらふらと現れた。そこに男がいるのに、そのことすら分からないのかもしくはすでに気にする余裕すらないのか、猫はそこでしゃがみ込み、ぶるぶると震えた。小さい。まだ生まれて半年たっていないような子猫だ。ひどく痩せ細っている。男はその子猫を覗き込み、ぎょっとして身を引いた。その猫の顔の右半分はすでに黒ずみ、かつて目であった場所には、代わりに死霊が棲みついていた。傷ついた目は腫れあがり、白いものがのぞいているのみだ。すでにだいぶ腐っている。おそらくその毒が全身にまわって、子猫はぶるぶると体を震わせていたのだ。

(助けたい)

と男は思った。いや、助けなければならない。しかし、男は子猫から目をそらし、もう一度見ることができなかった。それどころか、じりじりと子猫から後退していった。

あの怪我の様子では、今から医者に連れて行ったところで手遅れだろう。きっと毒はすでに全身に回ってしまっているはずだ。食べるものでもあげようか、少しは辛さがやわらぐだろうか。男は自分の考えに気がつき、そのあまりの貧弱な考えを心の中で嘲笑した。子猫が食べることなどできる状態にあるだろうか。まして、そんなことで死ぬことへの辛さが和らぐわけがない。男は両手を握り合わせた。じっとりと汗をかいていた。本当のところ、自分は恐怖しているのだった。死に侵されているという子猫の恐ろしい未知に対して、ただただ怖れ、押入れに潜り込む子供のように逃げてしまいたがっているのだ。

男はゆっくりと理解してきていた。子猫の向こうに、少年の面影が見えていた。彼も、こんな様子だったのだろうか。いや、きっとこんな様子だったに違いない。反乱軍と政府軍の争いの中で流れ弾にあたり、無関係に傷ついた彼。医者にかかるような金もなく、傷口を腐らせてただ死んでいくしかなかった無力な少年。先ほどの高級レストランで女性を責める権利など、自分にはありもしなかったのだ。苦しんでいる子猫一匹助けることができない。それどころか恐怖しているなど、なんと愚かなことだろうか。

男は歯を食いしばると、意を決して子猫に手を伸ばした。触れられた瞬間、子猫は一瞬もがいて反抗しようとしたが、その体力すら残っていないらしくすぐにあきらめて、またぐったりとうずまりこんでしまった。持ち上げた子猫の体は熱を帯びていて、びっくりするほどに軽く、骨ばっていた。男はそのまま、子猫を連れて、河川敷から去って行った。


水面に着地した写真は、ただの紙切れ同然だ。少年の笑顔はだんだんと水に染み込まれていき、やがて河の中に呑み込まれて、人知れず消えて行く。


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