五輪批判について、社会の中のスポーツ・音楽について


五輪をめぐる問題のそのひとつひとつについて、ここでは詳述しません。五輪反対派にとってはもちろん、賛成派にとってさえも何が問題なのか/問題とされているのかは明白だと思うからです。ここで述べたいのは私が批判的でいることの理由についてです。

私は音楽家です。日々の練習とその成果の発表で収入を得ています。ですからアスリートの方たちがどれだけつらい練習に耐え、競技に臨んでいるかも理解しているつもりです。人生を賭けて打ち込む姿は、音楽であれスポーツであれ人々の心を動かします。ですので私には五輪反対を唱えていて、しかしいざ競技を目にすると感動を覚える方たちの心情を否定することはできませんし、強く批判もできません。

ただしそのように観戦を楽しむ方も、心のどこかではやはりこの五輪はおかしいと感じ続けると思います。そしてやはり声を上げなければならないと思う瞬間が来るかもしれません。しかし自分ひとりで批判するのは勇気のいることです。もしその時自分が賛同することのできる声があれば、一歩を踏み出すことのハードルは下がるはずです。彼らが声を上げようと思った時にひとりでないことを示すためには、常にどこかに誰かの声がある必要があると思います。

ソクラテスは自らを虻に例えました。私には虻のようにちくりと刺して人々を目覚めさせる力はありませんが、もしかしたら私の言葉を読んだ誰かが自分の意見を言いやすくなるかもしれません。私はそのような思いで、批判を続けています。時に論理よりもあえて強い言葉や皮肉を選びます。それは私なりに時局を読んでの判断です。もちろん私も聖人君子ではないので、感情の起伏によることもあります。ご寛恕ください。

このような考えは反対派、特に強く反対している方からは、甘いと批判されるかもしれません。そのことも理解していますし、強い意志をもって反対されている方には敬意を抱いています。私自身腰の引けた批判を見て不満に思うこともあります。ですが怒り続けるには時間もエネルギーも必要です。それぞれの事情のもとでそれぞれの生活を抱えている以上、反対派全員にラジカルな態度を取るように要求することはできません。今回の五輪が噴出させた問題の多くがこれまで続いてきた日本社会のそれであるならば、解決には時間がかかるでしょう。辛抱強く戦って行くしかありません。そして長期戦にとって最も重要なのは個々が継続できるということだと思います。上記のような私の態度はそのための戦略です。

さて以上で検討したのは批判の方法ですが、もちろん批判だけでなく肯定の意見があってしかるべきです。五輪を肯定する意見を少なくない数見ましたし、実際IOCをはじめとする運営の主体は開催の決定をしました。しかしもしこの状況下で五輪を開催するのであれば、その意義を世論に訴えるべきだったのは、主催者でも観客でもなく、選手たちではないでしょうか。

「感動を与えたい」という文言もそれはそれで結構です。大切なことだと思います。先に書いた通り私は人生を賭けた挑戦の美しさを否定しません。ただしそこで賭けられているものは個人の人生であり、その美しさは個人の人生のなかの美しさです。もちろん私たちは個人としての生を営んでいます。ですがその生は同時に、社会の中の生に他なりません。それゆえ行動や選択のひとつひとつは、その影響に大小はあれど、社会的なものです。

ならば選手自身がその観点から、今回の五輪開催について、根拠とともにその(賛成)意見を述べる必要があると思います。社会にとってスポーツとはどんな意味をもつのか、社会のなかでスポーツはどうあるべきなのか。今回の五輪についてそのような本質的な問題意識に基づいた言葉が、選手たちから発せられたことがあったでしょうか。もちろん私は全ての発言をチェックしているわけではありません。ですが報じられているものを見る限り、説得力のある発言はほとんど見つかりません。非常事態宣言の中開催されるのであればなおさら、言葉を尽くす必要があったと思います。選手のみなさんが競技にだけ集中したい気持ちはよくわかります。ですがそれだけでは社会に生きる人間としての責任を全うしたとは言えません。

せめてこの大会が終わってからでも良いので、選手の皆さんにはいちどスポーツと社会について考えてみてほしいと思います。そしてスポーツと五輪の関係についても再考してほしいと思います。例えば今回の五輪の感染症対策が不徹底であることはさまざまなデータや報道から明らかです。それらは五輪自体の規模がもう少し小さければ、政治的力関係が違えば、利権のしがらみがなければさらに徹底できたはずです。五輪はスポーツ文化を支える大切な制度でしょう。ですが制度はスポーツの本質ではないはずです。スポーツと社会にとってよりよい制度のあり方について、ひとりひとりが真剣に向き合われることを願います。

とはいえもちろんウイルスは人間を待ってくれません。大会中であれ、即時の決断が求められる局面が訪れるかもしれません。その際には選手の皆さんの勇気ある発言・的確な判断を強く求めます。

最後に、こういうことを書くと、ではお前のやっている音楽ではどうなんだという反批判が投げかけられるかもしれません。少なくとも私自身に関しては、音楽と社会について、十分説得的であったかどうかはわかりませんがいろいろな機会で話したり書いたりしてきましたし、これからもそうするつもりです。ですが音楽の業界にもまだまだそのような言葉は足りないと思っています。もしこれを読んでいる中に音楽家の方がいらっしゃいましたら、ぜひいちど、社会にとって音楽とは何か、という問いを立ててみてください。

先日「感動を与える」というスポーツ選手たちの発言に対して、坂本龍一の記事が話題になりました。坂本は感動を与えたいというのはおこがましい、「音楽の力」という言葉が嫌い、ということを述べていました。そして音楽家の間で「私は好きだから音楽をやっている。人を感動させようとは思わない」というような賛同が相次ぎました。私もある程度共感します。ですが一方で、私たちは「音楽の力」という言葉をそうやすやすと手放してしまってよいのだろうか、と疑問を抱きます。例えば私たち演奏家は日々作曲家に近づくべく励んでいます。では彼らに音楽家であることの意味を問うたらどのような返答をするでしょうか。ベートーヴェンやブラームスが、単に好きだから音楽をやっていると答えるでしょうか。

社会にとって音楽とは何なのか、音楽の力とは何なのか、私たちにも問いかけられる局面が来るかもしれません。社会的主体としてその問いに答えることは、私たちの音楽活動そのものに勝るとも劣らない重要性があるのではないでしょうか。

話が長くなりました。スポーツ選手であれ、音楽家であれ、私たちには社会に対する責任があります。そのことを今いちど見直すべき時に来ていると思います。最後まで読んでいただいた皆さんに感謝いたします。

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