新野見卓也 Takuya Niinomi

ピアニスト・音楽批評家。ハンガリー国立ダンスアカデミーバレエピアニスト←リスト音楽院大…

新野見卓也 Takuya Niinomi

ピアニスト・音楽批評家。ハンガリー国立ダンスアカデミーバレエピアニスト←リスト音楽院大学院ピアノ科←リスト音楽院ピアノ科←一橋大学大学院言語社会研究科←国際基督教大学(ICU)人文科学科。ブダペスト在住9年目。

最近の記事

「最後のピアニスト」の退場によせて——ポリーニ追悼

マウリツィオ・ポリーニについて、以前ここにすこし書いたことがある(「「最後のピアニスト」は見事に退場したか――ポリーニについて」)。このピアニストにかんしての私の見方は、このときから大きく変わってはいない。ひとことで言ってしまえば、音楽的フォルムの構築とそこを突き破ろうとする衝動の相克こそが、ポリーニの演奏に凄絶さを与えている。 この論は浅田彰が1984年に書いたエッセイが下敷になっている(「最後のピアニスト——マウリツィオ・ポリーニを聴く」)。浅田はそのなかで、ポリーニを

    • 私がゲンロン友の会会員でいる理由

      ゲンロン友の会の更新が伸びないと聞いて、すこしでもお役に立てればと、微力ながら書きました。 私はピアニスト・音楽批評家です。現在ハンガリーはブダペストに住んでいます。いつからゲンロンの会員か覚えていないのですが、ゲンロン創業以前のコンテクチュアズに一時期入り、その後留学を期に一旦抜けましたが、海外発送もしてくれるということを知り入会し直した記憶があります。 さて、コンテクチュアズに入っていたということからもわかるとおり、私はそれなりに長い東浩紀読者です。高校生の頃、たぶん

      • 『レコード芸術』休刊の報をうけて

        もう読んでから時間が経っているので正確に要約できているか心許ないが、『音楽の聴き方』において岡田暁生が述べたことは、音楽を聴くことを知るとは音楽を語る言葉を知ることにほかならないということだ。そうであってみれば、音楽を語る場は、そしてそれが多数・多様であることは、音楽文化を豊かにする。『レコ芸』はそのような場のひとつ、もっと言えば中心としてあった。 『レコ芸』の偉大さをことさらに主張しようというつもりはない。だが、私たちは言葉を発明できない。それは引き継ぐものとして、そして

        • 吉川浩満『哲学の門前』——簡単な感想

          吉川浩満自身がはっきりとそう書いているわけではないが、これは遅れについての本であるといえるかもしれない。「哲学は驚きから始まる」とは吉川も引いているアリストテレスの言葉だが、おそらく人はその驚きの渦中にあって自分が哲学的経験をしているとはわからない。それが哲学であるという認識は、つねに遅れてやってくる。 吉川は黒人のタクシードライバーの差別発言に応答できなかった経験やサークル内での環境型ハラスメントに気づくことができなかった経験など、「恥ずかしながら、失敗や不如意にかかわる

        「最後のピアニスト」の退場によせて——ポリーニ追悼

          ブダペスト・ワーグナー・デイズの魅力

          アダム・フィッシャー総監督のもと2006年にはじまり、以降毎年6月に開催される「ブダペスト・ワーグナー・デイズ Budapest Wagner Days/ Budapesti Wagner-napok」は世界中の音楽ファン、とりわけワグネリアンの間では一大イベントとして認識されつつあります。2022年は《指環》が2サイクルの他、ルネ・パーペのリサイタル、⦅リエンツィ⦆の演奏会形式での上演が行われました。⦅指環⦆は連日16時開演(《ラインの黄金》は18時)で各幕間に約1時間の休

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          五輪批判について、社会の中のスポーツ・音楽について

          五輪をめぐる問題のそのひとつひとつについて、ここでは詳述しません。五輪反対派にとってはもちろん、賛成派にとってさえも何が問題なのか/問題とされているのかは明白だと思うからです。ここで述べたいのは私が批判的でいることの理由についてです。 私は音楽家です。日々の練習とその成果の発表で収入を得ています。ですからアスリートの方たちがどれだけつらい練習に耐え、競技に臨んでいるかも理解しているつもりです。人生を賭けて打ち込む姿は、音楽であれスポーツであれ人々の心を動かします。ですので私

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          音楽を愛する人のための読書案内(4)――有栖川有栖『狩人の悪夢』

          有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川文庫) 柄谷行人は漱石の『彼岸過迄』を論じる際、主人公の敬太郎が探偵に憧れていることに注目する。そして『彼岸過迄』という作品自体の構造に、探偵的な面を指摘する。ひと言で表せばそれは「遡行」である。 同論の中で、柄谷はシャーロック・ホームズ・シリーズに代表される探偵小説が19世紀末に出現したことは重要だと述べる。なぜならそれはカール・マルクスによる経済学批判やジークムント・フロイトの精神分析と同時代のものだからである。そしてそれらはみな、現在か

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          音楽を愛する人のための読書案内(3)――山本貴光・吉川浩満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』

          山本貴光・吉川浩満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』(筑摩書房) とある北関東の片田舎。ぽつぽつと、力ない音色のピアノの音が聞こえてくる。 新野見 (ミレミレミシレドラ~……)はあ、もう本番まで1ヶ月もないのに。 ドアをノックする音。 新野見 誰だろう?  ドアを開けると、そこには髭をのばした老人が立っている。 新野見 ええと、こんにちは(ギリシャかローマを旅行した時に会った人かな?) 謎の老人 ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。 新野見 あ

          音楽を愛する人のための読書案内(3)――山本貴光・吉川浩満著『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』

          片山杜秀・岡田暁生両氏の対談について

          Yahooに転載された片山杜秀と岡田暁生の対談が話題になっている(掲載は『中央公論 2021年1月号』)。「クラシック存亡の危機 今こそ見せてくれ 音楽家の矜持を」という挑発的なタイトルの通り、両氏はコロナ下での音楽文化について厳しい意見を述べている。具体的な批判の対象は音楽家や聴衆である。私も彼らの批判の対象であると思われるので、応答しておきたいと思う。 対談の要旨はおおよそ以下のようにまとめられるだろう。クラシック音楽は国家によって保護されるべき高級な文化であり、公的な

          片山杜秀・岡田暁生両氏の対談について

          演奏の苦しみ――リヒテルについて

          ある種の天才について語ることは、その語り口にかかわらず、その神話を強化する仕方でしか作用しない。スヴャトスラフ・リヒテルについての言葉もまた、いかなるものであれその神話に回収される。ブリューノ・モンサンジョンがリヒテルに関するドキュメンタリー映画をつくった際、その題名を《謎(エニグマ)》としたのはいたずらな神秘化を図ってのことではない。事実として、リヒテルは私たちの前に大きな謎としてある。いかなる言葉もその固有名をとらえきれていない。 リヒテルにまつわる様々なエピソードには

          演奏の苦しみ――リヒテルについて

          音楽を愛する人のための読書案内(2)――中沢新一「東方的」

          中沢新一「東方的」(『東方的』講談社学術文庫) 中沢新一の仕事は、芸術から科学まで、人間のあらゆる営みを対象としている。その広大な思想をつらぬくキーワードは、贈与である。これは中沢が多大な影響を受けたクロード・レヴィ=ストロースをはじめ、20世紀の多くの思想家にとって中心的なトピックでもあった。 贈与とは何か。贈与は交換と対で思考される。私たちは普段交換の世界に生きていて、贈与について直接は知りえない。具体的に考えてみよう。私たちの経済活動は売ることと買うことから、つまり

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          音楽を愛する人のための読書案内(1)――大澤真幸「表現の禁止を経由する表現」

          このシリーズでは音楽についての本を紹介する予定です(更新頻度は未定)。ポイントは音楽書ではなく「音楽についての」ということです。さらに正確にいえば、音楽についての論考を含む本、となります。いわゆる音楽書というと、音楽学者や作曲家・演奏家による評伝や楽曲分析の載った解説書を指すと思います。ですが専門家によるものではなくても、素晴らしい本はあります。また、その本全体の主題ではないけれど音楽について述べた個所がある本や、音楽と関係ないことを述べていながら音楽を考える際に役に立つ本も

          音楽を愛する人のための読書案内(1)――大澤真幸「表現の禁止を経由する表現」

          バルトークからみたドビュッシー――演奏の不自由さについて

          バルトーク・ベーラのある時期の作品を演奏するには、不自由さと向き合わなければならない。それはバルトークが楽譜に書き込んだ指示の多さに由来する。演奏が再現芸術である以上、それは楽譜に従うことを原則とする。そうであるならば指示が多いほどに、解釈の自由度は狭められることになる。もちろん再現と言う語の含意は時代や立場によって異なる。だがそれをひとまず措くなら、概して書き込まれたものの緻密さと自由度とは反比例の関係にあると言える。 その不自由さのひとつの例を、8つの民謡編曲からなる《

          バルトークからみたドビュッシー――演奏の不自由さについて

          「最後のピアニスト」は見事に退場したか――ポリーニについて

          浅田彰は約40年前のあるエッセイの中で、マウリツィオ・ポリーニのことを「最後のピアニスト」と呼んだ(「最後のピアニスト――マウリツィオ・ポリーニを聴く」)。これは柴田南雄がブーレーズの第2ソナタのことを「最後のソナタ」と呼んだことに掛けている。柴田の発言はピアニストが礼服を着てステージで演奏することのできるソナタの最後のもの、西欧音楽のひとつの極北であるというものだった。浅田による「最後のピアニスト」という呼称は、この「恐るべき知性の創り出した恐るべき難曲」を「これまた恐るべ

          「最後のピアニスト」は見事に退場したか――ポリーニについて

          私たちの社会とオーケストラ

          ひところほどは聞かなくなったが、コロナ禍での自粛要請によって多くの公演が中止・延期されるなか、芸術に携わる多くの人々が声を上げた。私も音楽界でそのような言葉をたくさん見かけた。曰く、音楽は不要不急などと片づけられるべきものではない。音楽は人々を元気にすることができる。その通りだと思う。 とはいえ、である。私たちはもう少し言葉を尽くすべきではないか、という思いもあった。人を元気にする、というのはそれだけで大変なことである。その価値を否定するつもりはない。けれど同時に、それだけ

          私たちの社会とオーケストラ