私たちの社会とオーケストラ

ひところほどは聞かなくなったが、コロナ禍での自粛要請によって多くの公演が中止・延期されるなか、芸術に携わる多くの人々が声を上げた。私も音楽界でそのような言葉をたくさん見かけた。曰く、音楽は不要不急などと片づけられるべきものではない。音楽は人々を元気にすることができる。その通りだと思う。

とはいえ、である。私たちはもう少し言葉を尽くすべきではないか、という思いもあった。人を元気にする、というのはそれだけで大変なことである。その価値を否定するつもりはない。けれど同時に、それだけでは足りないところもあるようにも思う。そのあたりのことは以前ブログに書いたこともあるが、少しずつ公演が再開されているなか、改めてそのことについて考えてみても無駄ではないだろう。

たとえば次のような反論を仮定しよう(実際にあったかもしれない)。人を元気にする、大いに結構。しかし、人を元気づけることは他にもあるのではないか? なぜ、それは音楽会でなければならず、家で音楽を聴くのではいけないのか? 他の趣味や娯楽から元気をもらえばいいのでは? 等々。

このような問いに対して、音楽家たちはどのように答える/答えただろう。私もすべての意見を読んだわけではないから、うかつなことは言えない。けれど、本当に強度のある言葉は正直それほど多くなかったように思う。人に希望を与えるということを繰り返し述べるだけでは、これらの反論をはねつけられるほどの強度を持たないだろう。必要なのはなぜそれが希望を与えるかを語ることではないだろうか。

ここではその希望についてオーケストラを例に考えてみよう。オペラに次いで大人数の動員が必要となるオーケストラの公演は当然自粛要請の対象となった。奏者や聴衆は活動再開を願い、オーケストラは必要であると言った。では、なぜオーケストラは私たちの社会に必要なのか。

私の考えを一言で言ってしまえば、オーケストラとは人が集まってはじめて成り立つものであるという、そのことが最も重要である。それはすなわち社会や世界のあり方のモデルである。ひとつのことを複数人でやり遂げるということは、学校から会社に到るまであらゆる場所で日常的に起こっていることで、さらにそれが集まって社会をつくっている。それはあまりにも当たり前に聞えるが、実はうまく機能することが困難でもある。その象徴としてオーケストラを考えてみよう。

オーケストラの演奏は、それぞれの奏者が与えられた役割を全うすることで初めて成り立つ。各奏者はあるところでは旋律を演奏し、また別の場所では和音の構成音のひとつを担う。指揮者の指示にしたがい、楽譜に書かれたことを再現をこなしていく。とはいえ音楽に親しんでいる人は皆知っているように、それだけでは十分といえない。私たちを感動させるような演奏を仔細に検討するならば、それぞれの奏者は単に役割を全うするという以上のことを行っていることがわかる。

各奏者には自由に演奏する権利がある。優れた奏者というのは皆、それぞれのインスピレーションに従い、演奏している。ではそのインスピレーションはどこから来るかと言えば、それは指揮者の表情であったり、他の奏者の奏した音であったり、耳を澄ませる聴衆の醸し出す雰囲気であったりする。つまり、それは自分から湧き出してくるのではなく、他者からやってくる。そしてその演奏から刺激を受け、さらに別の奏者が演奏する。そのようなインタラクションが連鎖することで初めて成り立つのがオーケストラの演奏である。それはちょっとした奇跡のようなものだ。

演奏を別の視点から考えることもできる。ほとんどの場合演奏するということは、数日前にせよ数百年前にせよ、過去に誰かが作った曲を演奏することである。つまり演奏は過去の作品の現在における解釈という行為である。もちろん様々な美学的態度がありうるが、多くの場合それはその作曲家を神聖化することではない。むしろいまその作曲家の考えたことがどういう意味を持つかと検討することである。彼らの思考を現在の楽器や環境で、現在の聴衆に届けるにはどうしたらいいかと試行錯誤することである。ここにもまた奏者の自由がある。先に述べたようなインタラクションがいま・ここでの弁証法であれば、これはいまと過去とにまたがる弁証法と言える。

オーケストラというものが成り立ったのは、西洋の近代である。それは自由や平等という、当たり前だけれどもそれだけに尊い概念をつくりあげた一方で、全体主義や大量虐殺という人類史上最大の暗部をも生んだ。そうであるならばオーケストラはその暗部をも同時に象徴してしまう危険をも孕んでいるだろう。事実私たちはそういう歴史を知っている。それでも私たちがオーケストラの演奏に感動するとき、そこに現れる個人が自由であって初めて可能になる全体性というものは、悪しき全体主義を超克する契機となると私は思うし、私たちがどのような社会を築くべきかという理想として捉えられると思う。

モデルや理想なしでは私たちは生きていけない。その理想が未だ果たされていないとしたら、それだけに一層重要とも言える。確かにそれは批判される側面を持つ。理念的に西洋近代の傲慢さを問うこともできるし、もっと具体的に経済合理性の観点から指摘することもできよう。とはいえもし演奏という行為が私たちの社会が目指すべきものを何らかの形で体現しているのであれば、それは不要不急でもないし、失われてよいものでもない。

よく指摘されているように、いまの世界の混沌は、ヴィジョンの不在がその原因のひとつとしてあると言える。パンデミックはその原因というよりも、それを露呈、もしくはその事体を促進したと言えるだろう。政治家はありうべき未来の展望を語らないし、市民は弱者に憎悪を投げつける。もし自由と連帯との共存に、全体主義なき全体性に現状からの脱出の契機を探るのであれば、オーケストラはそのモデルとして最もふさわしいもののひとつでありうる。私はそれを信じている。

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