伝え方はアメーバー

電子メールが登場し、それがSMSやLINEといった類に発展し始めた時から、なんとなく違和感があったのだが、最近になりより感じることがある。

それは生身、フィジカルな肉声での通話よりも、チャット的な文字のやりとりが幅を利かせるようになったということだ。

これはSNSの発展も関係しているような気がしていて、若者の活字離れだなんて古い言葉を使ったとしても、紙の本は読まずとも、日々のやりとりで膨大な数の文字が人々の間を駆け巡っている。

まとめサイトやファスト映画館(こちらは違法)あるいはYouTubeのゆっくり解説動画などでも、活字の解説は行われており、さらにはVチューバーが実況をする傍では、その行為に対して投げ銭のみならず、リアルタイムの言葉の氾濫が起きている。

おそらくその源流はニコニコ動画で、コンテンツに対して画面中にコメントを流して他の人の反応を知ることができるシステムが生まれたことだろう。厳密にはシステム的には存在していたのかもしれないが、広めたのはニコニコ動画だと思う。

個人としては、通話をすることでニュアンスやら意図を説明できる通話の方が好きなのだが、読み返すことができて、さらに送る時間をさほど考えなくていい(とは言え、着メール音で睡眠を妨げることもあるから、良識の範囲内ではあるよな)し、何よりも形に残るからと、SMSやメールアプリを重宝するのも理解できないではない。

通話は温度を感じるし、文字だけでは伝わりきれない相手のコンディションも文字だけに比べれば伝わりやすい。文体から何かしらの伝わるものもあるが、比較するには差が大きい。

結局のところ、これは以前よりも人が人との距離感を保ち、パーソナルスペースを広く取りたがるようになったからなのか。それとも、飛脚から電話になり、今度は電波による伝播に型式が変わったからなのか、あるいはその両方ともなのかはわからないけれど、いずれにせよ人と人が伝えたいと願う気持ち自体には変わりがないように思う。

会いたがりで話したがりの傾向が強い私はピテカントロプスや、あるいは太古の姿のまま今日の海を泳ぐシーラカンスやチョウザメの類なのかもしれない。人間嫌いとか言いながら、フィジカルなものをありがたがるという矛盾。でも、それが人間なのかもしれませんねと言う自己正当化かつ事後処理。

確かなことは、アメーバのように形を変える伝え方があるとしても、それを受け取るのは人間でしかないと言うこと。生身の感情の表現が、電子化されての言霊の可視化になるとしても、AI生成ではなく1人の人間から生まれた言葉からのものであるとしたら、それは変わらないのではないかしらね。

近未来には、また新しい形の感情の伝達ツールが生まれるだろうし、それは映画アバターのような仮想現実に類するものかもしれない。だが、どれだけそれが進んだとしても、脳と心臓に代表される【こころ】が生み出して【心】が受け取るものであるのならば、それはそれで悪いことなどでは、おそらくない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?