Snowdome
「顔も見たくない」
そう言って彼女は部屋を出て行った。飛び出すという衝動的なものではなく、悠々と、まるで戦闘に勝った将軍が祖国へと凱旋するかのように、悠々と部屋を出て行った。
背中越しに「顔もって、他に何を見たくなかったんだよ」と投げかけてみるが、答えは当然無く、荒くドアは閉まった。
三年半の交際期間の中で、一番の修羅場。人の携帯電話をいじって、メールをチェックする女は最低だが、彼女がいながら他の女の子に手を出した自分の最悪度は度外視してしまえるほど、ずうずうしくはない。
仕事帰りに後輩と飲みに行った。それをいちいち報告する必要ってのはないと思うが、そのまま朝まで帰らなくて、へべれけになったまま某所にて二人で寝ていた事は、報告したくても報告できない。事後承諾なんて得られるわけ無いし、それは個人的な思い出として心のポッケに、しまっておこうと思っていたところを、【昨日はありがとうございました。また飲みに連れて行ってくださいね。もちろんその後も♪】なんてメールが入ってきたのを見られたのだから、さあ修羅場。
メールが読まれているのを知らずに、口笛を吹いてトイレから帰ってきた俺に待っていたのは、付き合い始めの頃にも見たことが無かった笑顔の彼女。
手元には俺の携帯電話。瞬時に悟りましたね。エスパーかって位にピンときました。
血の気が引くって俗に言うけど、本当に卒倒しそうになった。
そして始まる罵詈雑言。入念に練られていたかのような不満の嵐は、小一時間続き、やがて部屋は静寂を取り戻した。彼女が出て行ったから。
以上、回想終わり。俺と彼女との時間も終わりかもな。
ジーンズからキャメルを取り出し、オバQのジッポで火を付ける。
もくもくと、煙が口元から部屋へ広がっていく。
白い時間。空白。すげえ、空白って作り出せるじゃん自分でと、現実逃避的な発想をしつつ、ニコチンとタールの連合国を灰に送り込んだ。
起きたことは仕方ねえなと思う気持ちが八割。あとは、少々の隠し味として、そうなったら、後輩と付き合えるかなーという汚れた気持ちがあった。心身ともに相性は悪くなかったし(もちろんダブルミーニング)それでもいいやって思った。
三年半の時間は、降り積もった雪のように、二人の間に横たわっていて、口にはしないけど、彼女(もう、元彼女に近いかもしれないが)との会話の端々に表れていた。
当然、外に出していれば雪は溶けるけれど、ひんやりとした保冷室に入れていれば、その堅さは維持される。つまり溶けない。
どうせなら、溶けないほどの絆を作れれば良かったんだが、付き合い始めの頃の熱って、いつか冬が来るって事を忘れてしまう真夏のようなものだったから、雪が降ること自体を忘れてしまっていた。季節感のない国に住む人みたいに、それがいつまでも続くと思い込んで努力すらしようとしなくなっていた。
たぶん俺が。
柄になく、考え込んでしまってきまりが悪くなったので、カーテンを開けて、外の景色を眺めてみた。今日は代休で、昨夜から飲んだくれていたから、彼女が部屋に来るまで、外の状態は分からなかった。テレビもつけていなかったし。
だから、外がパスタに粉チーズを振りかけたみたいな大降りの雪だってことはしらなかった。音楽をかけっぱなしにしていて気づかなかったかが、ビュウビュウ叫んでんじゃん風。
あわてて、レザーコートを着込み、玄関口にあった傘をつかんで走り出す。
あ、鍵しめてなかったなと思いつつも、必死になって足を前へ。
顔には、ガンガン雪の結晶が入り込んでくる。傘さして走るって発想がないから、持つだけ持ってそのまんま。
あ、なんか久しぶりに必死じゃない俺?。格好悪い。ひとりごちて、呼吸の荒さをごまかす。
どれくらい走ったのか、彼女のアパートの近くまで来た時に見慣れた背中を見つけた。
「なあ」
地域のみなさまには、若干迷惑をかけてしまうほどの大きさで声をかける。
彼女からの返事は無い。
「傘持ってきた」
灯りのついた部屋の中からは、楽しそうな声が聞こえている。そして部屋の外では沈黙が。
「もう、ここまで来て、家すぐそこなのに、馬鹿みたいだけどさ、お前の傘、もう会わないなら、うちにおいておけないし、また雪が降ったら、困るだろ。だから、俺の触った、ものなんて、見たくもないかもしれないけど、持っていけよ」
彼女が振り向く。
そして微笑む。
「あんたさ、馬鹿じゃないの?それ、あたしの傘じゃなくて、あんたのじゃない」
反射的に手元を見る。赤と白のストライプの傘。確かに俺のだ。しかも、彼女の手元にはしっかりと傘が、俺、完全にピエロじゃねえか?
「馬鹿だね。あんた格好つかないことばっかりだ」
そういうと、彼女は俺の方へツカツカ歩いてきて、思い切り頬を引っ叩いてきた。
寒さで麻痺していたのか、それほど痛くは感じなかった。
「早く、これで顔隠しなさいよ」
彼女は俺の持っていた傘を奪い取り、開いて頭の上に掲げた。
「あ、あのさ、俺・・・」
言い訳の材料は無い。あわせる顔は本当の意味ではあるけれど、その顔自体見たくないて言われているし。状況は最悪。
「早く自分で持って!」
「分かった」
傘で顔を隠し、「じゃあ俺かえるわ」呟いて、踵をかえそうとした。
「待ちなさいよ」
「あ?」
「今、あんた顔隠れてるわよね。で、傘差さないで来たから体も出来そこないの雪だるまみたいに、あちこちに雪積もってる」
「あ、そんなことになってんのか」
雪を振り払おうと、肩に手を伸ばすと、思い切りその手をぶたれた。
痛っと声が漏れたその刹那、彼女は俺の肩口に寄りかかってきた。
「こうしていれば、顔も見えないし、雪が積もっていれば、あんたの体も見えない」
「ごめん、俺・・」
「謝るくらいなら、初めからしちゃだめだってわかんないかなあ、馬鹿」
彼女の回した手に、ぎゅうっと力が入る。
涙が零れ落ちそうになった。
だから、上を向いた。傘の隙間から見えた夜空は、幾億の蛍を一斉に放したような、雪のドームだった。
「二度はないからね」
彼女の声を聴きながら、降り積もった雪が風に飛ばされていくイメージが過ぎった。
「許してくれるのか」
「さあね」
空からの、ちょっとした贈り物を見上げて
俺達は包まれていた場所から、また新しいなにかを作り上げていけるのだろうか。
しんしんと、空を覆った雪は降り続いている。
白い息と、肌と肌が感じあう熱が溶かすもの。飛ばすものを思って、傘で見えない彼女の顔を思いながら、俺は抱きしめた体を、より強く抱いた。
冬が始まるよと誰かが歌っていて、冬の終わりを歌う誰かの歌が浮かんだ。
広がる景色を、見ていたいと、この冬初めて思った気がした。
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