解釈違いのハムサラダ

ハムサラダのハムにビアソーが用いられていたり、あるいはベーコンが使われていた場合、それはハムサラダではなく、ハムサラダに似た加工品サラダであり、ハムサラダにポテトサラダが付随していても、商品名はハムサラダで提供される矛盾を受け入れて私は生きている。

浦安にある某夢の国が東京を冠にしていても、優しい大人や素直な子供たちは何も言わない。ビフテキがビーフステーキであるにも関わらず、トンテキはトンカツ同様に豚をポークとして扱わずとも平気なのだ。それが優しさか、欺瞞かは問うまい。

勘違いや、うろ覚えの数々を誰かに訂正されることは気分の良いものではないが、過ちから学ぶことでトライアンドエラーの果てにさまざまな便利は生まれてきた。失敗から生まれたチーズやらバターやらがそれを証明しているのではないだろうか。自ら生まれる成功と必要は発明の母、Image or Real?BEEF OR CHICKENてなもんだろう。


と、このように己の勘違いを正当化してみても、間違いは間違いであるわけで、文系的な解答が一つではない世界ばかりを求めるのには限界がある。

某名探偵アニメでは、決め台詞に真実は常に1つ!だなんてキメ顔で言い切るけれど、あれは起きた事象は事実として1つなだけで、各々の視点から感じられる真の事柄なんてのは幾通りにも分岐してしまう。まあアニメでメインターゲットが子供であるなら言い切る方がわかりやすいからなんだろうけどね。

名前というのは陰陽師で安倍晴明が語っているように呪いであるから、一文字でも間違うと意味合いが通じなくなったり、別物になってしまう。

フルーツポンチの末尾を2つ前と入れ替えてしまうとバナナティックなディックになってしまったり、学級文庫と口の両端を引っ張りながらいうことで青春が、青から黄土色に変わってしまうというエグいことになるのと同じ、、、じゃないかそれは。

ともあれ、解釈の余地が広いと、とんだ化け物を召喚する可能性はあるということだと思う。

日本で売られているバームクーヘンとhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/バウムクーヘンにあるような厳密な意味でのバウムクーヘンの差異を気にしないでいられるおおらかさや、いい加減さが今日もハムサラダをハムサラダたらしめているのだろう。

マカロニにハムや野菜を和えていてもハムサラダかマカロニサラダ。どちらかが正解で、どちらかが誤りではない。解釈の多様性を受け入れている割に、この国はある部分で保守的で不寛容だ。

そのチグハグさこそが文化であり、日本らしさかもしれない。それが塗りつぶされてどこぞの国の劣化コピーになってしまうのは勿体ないんだけどなぁ。

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