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天気コントロールの生け贄【てるてる坊主考note#33】


はじめに

人柱や人身御供ははたして、史実なのか、それとも伝承なのか。古くて新しい、だが、それと向かいあう者の思想的な場所といったものを、瞬時にして酷たらしくも露出させてしまう厄介なテーマではある。

 供犠論をめぐる、民俗学者・赤坂憲雄(1953-)の言葉です[赤坂2013:42頁]。人柱や人身御供といった生け贄は、かつて実際にあったのかどうかという難儀な詮索は、到底わたしの手には負えません。
 ただ、天気に関わる儀礼に限ってみても、文献資料や伝承のなかには、いくつもの生け贄譚が顔を覗かせています。天候不順に際してその払拭を図るべく、人間が犠牲となる場面がしばしば語られてきました。
本稿では、そうした天気のコントロールにまつわる生け贄譚に耳を傾けてみましょう。どうやら、生け贄譚には共通する構造があるようなのです。
 ところで、天気のコントロールといえば、現代に生きるわたしたちに身近な存在として思い浮かぶのがてるてる坊主。古今の生け贄譚に通底する供犠のしくみのなかに、てるてる坊主はどう位置づけられるのか、あわせて探ってみます。

1、晴娘の祈り(中国)

 まずは、掃晴娘の由来を語る中国の説話から。掃晴娘とは中国に伝えられてきた風習で、日本のてるてる坊主と同じく、晴天を祈願するまじないの人形です。てるてる坊主と異なるのは、女の子の姿をしていて、雨雲を払う箒を手にしている点。
 その掃晴娘の由来を伝える説話にはいくつかのバリエーションがあるようですが、本稿で注目するのは『北京伝統文化便覧』(1992年)に収められているお話[陳1992:1304頁]。詳しい日本語訳が「『燕京雑考』北京歴史・習慣・風俗の雑記帳」というWEBサイトに掲載されているので、ここではその概略を紹介します。
http://pengzi.maruzen.com/season02/qingniang.htm

むかし、北京に晴娘という、手先が器用で切り紙が得意な娘がいました。ある年の6月、大雨が降り続き、何日も晴れず、北京の城下には3尺もの水があふれました。
そこで、ある夜遅く、晴娘は崩れ落ちそうな屋根の上に座り、神さまに無事を祈りました。すると突然、「東海竜王からお前を王太子の妃にとの思し召しだ。逆らえば北京を水没させることになる」という言葉が響きわたりました。
みんなを救うために晴娘が天命を受けることを伝えると、一陣の強風が巻き起こり、晴娘の姿は消え、空は晴れ渡りました。
こののち、人びとは晴娘を偲び、天気の悪い日が続くと娘たちに紙を人型に切らせて、門に掛けるようになりました。これが掃晴娘を掛ける風習の由来です。

 晴娘に天命を下す東海竜王とは水の神さまです。河海の生き物たちの主でもあり、雨をコントロールする力をもつと信じられています。東海竜王の世継ぎである息子(王太子)のもとへ嫁ぐということは、すなわち、天に召されることを意味しているのでしょう。
 後日譚として、天気の悪い日が続くと、人びとは晴娘を偲びつつ、掃晴娘を作るようになったといいます(★詳しくは「掃晴娘の由来を伝える説話 【てるてる坊主考note#15】」参照)

2、「供犠のイケニエ」の〈置き換え〉

 ここで念頭に置いておきたいのが、冒頭でも触れた赤坂憲雄による供犠論。赤坂は『境界の発生』(2002年。初版は1989年)のなかで、古今東西の人身御供にまつわる儀礼や伝説を分析しながら供犠論を展開しています。
 赤坂によれば、「供犠はつねに〈置き換え〉を本質とする」のだといいます[赤坂2002:242頁]。

供犠のイケニエは、共同体の成員間にとびかう相互暴力を一身に負わされる第三項である……(中略)……原型的には、王こそがそうした第三項の役割をになう存在であるが、多くそれは共同体内部の周縁性をおびた者に肩代わりさせられる。さらに、この役割は共同体の外部に転移される。供犠の暴力はひたすら遠くへ、外部へとさし向けられるのである。

 「供犠のイケニエ」の役割は、〈王〉→〈共同体内部の周縁性をおびた者〉→〈共同体の外部〉といった具合に、常に遠くへ外部へと〈置き換え〉がなされていくというのです(★図1参照)。

 〈王〉(図1の❶)に代わる〈共同体内部の周縁性をおびた者〉(❷)は、共同体のなかから指名制や輪番制で選ばれることが多いといい、赤坂は例として未婚の処女を挙げています。もとより、赤坂が注意しているのは、「共同体の内側から犠牲者が択ばれるかぎり、共同体に安寧はもたらされない。相互暴力の循環から脱しきれていない」という点[赤坂2002:246頁]。
 そこで、〈共同体内部の周縁性をおびた者〉→〈共同体の外部〉(❷→❸)という〈置き換え〉が発生します。〈共同体の外部〉(❸)の者とは、いわゆる「異人」であり、奴隷・漂泊民・猟師・回国修行僧・都の貴種などが例に挙げられています。
 〈置き換え〉にはさらに続きがあり、「供犠のイケニエ」は〈共同体の外部〉→〈「人間」カテゴリーの外部〉(❸→❹)と推移していくといいます。〈「人間」カテゴリーの外部〉(❹)の例として赤坂が挙げているのは獣類や供物など[赤坂2002:250頁]。
 たとえば、先述した掃晴娘の由来を語る説話では、晴娘という少女が犠牲となっています。それが元となり、悪天候が続くと人形を作って門に掛ける習慣になったというストーリーでした。説話のなかで犠牲となった少女は、赤坂がいうところの〈共同体内部の周縁性をおびた者〉(❷)にあたるでしょう。やがて習慣となった掃晴娘の人形は〈「人間」カテゴリーの外部〉(❹)。
 すなわち、掃晴娘の由来を語る晴娘の説話のストーリーは、前掲した図になぞらえるならば、〈共同体内部の周縁性をおびた者〉→〈「人間」カテゴリーの外部〉(❷→❹)という〈置き換え〉と捉えることができそうです。〈共同体の外部〉(❸)を一足飛びにしたかたちです。

3、殷の湯王による雨乞い(中国)

 赤坂は「供犠のイケニエ」の〈置き換え〉が見られる事例を数多く挙げています。そのなかで注目したいのが、天気のコントロールに関わる事例2つ。古代中国と日本の文献資料に記された雨乞いの儀礼です、2例とも王が関わりをもちます(★詳しくは「天気の好し悪しと日ごろのおこない【てるてる坊主考note#32】」参照)。

 まずは古代中国の事例から。『捜神記』(4世紀半ば)に収められた、殷(紀元前17世紀ごろ-紀元前11世紀半ば)の創始者・とう王(生没年不詳)がおこなった雨乞いの話です[赤坂2002:244頁]。

七年間も大ひでりが続いたために、湯王は桑林まで出かけて神を祀った。爪と髪をきり、みずからを犠牲いけにえとしてささげつつ上帝に祈願した、という。

 祈願の対象である「上帝」とは、古代中国における天上の最高神を指します。湯王がおこなった雨乞いでは、自身の爪と髪を切って「上帝」に捧げるという方法がとられました。そこには、湯王が自らを生け贄として天の神に捧げる、という意味が込められています。
 湯王が天の神に捧げた爪や髪は、中国に限らず日本でも、捧げものとして重要な意味が込められてきたようです。赤坂は『古事記』や『日本書紀』神代巻のスサノヲ伝承に見られる例に触れています。記紀のなかで、スサノヲは高天が原で暴挙をふるって追放される際、爪や髪のほか、唾液やはなじるなどを責めとられています。
 それらがいずれも「人間の身体の境界部位に生じるモノ」であることに、赤坂は注意を促しつつ、「それをハラヘツモノとして他者(あるいは神)に委ねることは生殺与奪せいさつよだつの権をあたえることにひとしい」と指摘しています。ハラヘツモノとは、穢れをはらあがなうために差し出されるモノのこと[赤坂2002:281頁]。
 湯王の雨乞いにおいては、〈王〉自らの身体の境界部位がハラヘツモノとして差し出されています。それは、前掲した供犠の〈置き換え〉のしくみにおいては、❶→❷という〈置き換え〉に至る前段階といえるでしょうか。

4、天皇の命令による雨乞い(日本)

 湯王の雨乞いの話をふまえて、赤坂は「農耕民族の王は、おそらく湯王と同様の役割を古くは果たしたものにちがいない。天皇にもその面影は残っている」と述べ、日本の事例を紹介しています。江戸時代の随筆集『譚海』(寛政7年=1796)に収められた雨乞いの話です[赤坂2002:244-245頁]。

京都に旱魃かんばつがつづいたとき、天皇を中心として雨乞いがおこなわれた……(中略)……天皇がみずから雨乞いをするかたちはとらず、一人の少女を身代わりにたてる。雨乞いの歌を書いた短冊を、笹竹につるし、潔斎のあと、少女を大文字山に連れてゆき、呪文を書かせて谷に投げ込むという儀式をする。

 話の時代設定や天皇の具体的な名前は明記されていません。ただ、この『譚海』に記された雨乞い儀礼には、民俗学者の宮田登(1936-2000)も着目しており、次のように指摘しています[宮田1977:36頁]。

京都では大文字山が雨乞いの対象となっており、この山中に水神がいると信じられていたらしい。この神に天皇の代行者である一五、六歳の女子が立てられ、それが一種いけにえの機能を発揮するようだ。その女子が谷へ呪文を投入するというのは、いけにえとしての女性が水神に捧げられたことを象徴する儀礼だろうか。この段階では、天皇の代行者が、雨乞いの霊力を現出するのであるが、本来は天皇の宗教活動の一つであったように思われる。

 本来ならば天皇が自ら先頭に立って雨乞いの儀礼をおこなうべきところ、女の子がその身代わりとなって、水神に生け贄として捧げられる役を担っている、というのです。こうした宮田の解釈もふまえつつ、赤坂は「この雨乞いの儀礼にあたって、天皇→少女→呪文という〈置き換え〉がおこなわれていたようにおもわれる」と述べています[赤坂2002:245頁]。
 前掲した供犠の〈置き換え〉のしくみになぞらえるならば、「天皇→少女」という〈置き換え〉は、〈王〉→〈共同体内部の周縁性をおびた者〉(❶→❷)という〈置き換え〉に該当します。また、儀礼に際して少女が谷に投げ入れた呪文について、赤坂は〈「人間」カテゴリーの外部〉(❹)の一例と位置づけています。すなわち、「少女→呪文」という〈置き換え〉は、〈共同体内部の周縁性をおびた者〉→〈「人間」カテゴリーの外部〉(❷→❹)という〈置き換え〉と位置づけられるでしょう。
 まとめてみると、『譚海』に記された雨乞い儀礼には、天皇→少女→呪文という2段階の〈置き換え〉が見られることがわかります。〈王〉から〈共同体内部の周縁性をおびた者〉へ、さらには〈「人間」カテゴリーの外部〉へ(❶→❷→❹)。先述した掃晴娘の由来を語る晴娘の説話と同様に、〈共同体の外部〉(❸)を一足飛びにしたかたちです(★図2参照)。

5、僧からてるてる坊主へ

 〈共同体の外部〉(❸)をめぐっては、供犠のの〈置き換え〉のしくみにおいて、赤坂が回国修行僧を例示していました(★前掲の図1参照)。具体的には、行人や山伏、六部など、修行のために各地をめぐり歩く宗教者たちを挙げることができるでしょうか。
 文化人類学者の小松和彦(1947-)は、そうした回国修行僧たちにまつわる生け贄譚に注目しつつ、てるてる坊主へと連想を広げています。「照々坊主の原像」と題された講演での考察に耳を傾けてみましょう(★詳しくは「身代わりとしてのてるてる坊主【てるてる坊主考note#28】」参照)。

 小松が念頭に置いているのは、東日本を中心に広く分布する行人塚の伝説です。そのなかで語られるのは、天候不順や飢餓、疫病などの災厄に見舞われた村を、遊行の宗教者たちがたまたま通りがかる場面。村びとから乞われると、彼ら宗教者たちは村を災厄から救うべく、土中に入定して即身仏になったと伝えられています。
 こうした土中入定伝説として語られるような、村を災厄から救うために宗教者を生き埋めにする風習は実際にあったことなのかもしれない、と小松は指摘しています。そのうえで注目したいのが、天気のコントロールを図る儀礼をめぐる、次のような推測[小松1991:133、137頁]。

昔は本物の日知り=聖=坊主に頼っていた。それがやがて人々は、そのような習俗を踏まえつつ、この生身の坊主を人形に肩代りさせるようになっていった……(中略)……生身の人間=行人が人形に置き換えられたのが、照々坊主というわけです。

 〈共同体の外部〉(❸)からやってきて村のために犠牲となった、かつてのヒジリ(日知り)や行人など回国修行僧のたち。そんなかれらの身代わりとして誕生したのが、てるてる坊主だというのです。そういえば、てるてる坊主の呼び名の語尾に付いた「坊主」という語、および、丸い坊主頭の姿は、僧を思い起こさせます。

6、〈生身の人間〉から〈犠牲の人形〉へ

 民俗学者の柳田国男(1875-1962)も、遊行する宗教者たちの系譜を説いた「毛坊主考」のなかでてるてる坊主に触れています。「毛坊主考」は大正3年から4年(1914-15)にかけて発表された長編論考。虫害や疫病を避けるためにおこなわれる神送りの儀礼に、犠牲の人形が用いられる事例を列挙したうえで、柳田は次のように述べています[柳田1990:452頁]。

他の種類の災害を邑落ゆうらくからはらう場合にも人形はやはり常に用いられている……(中略)……近世の田舎では風雨の害をはらうために人形を送る例もあった。照々坊主てるてるぼうずの風習もまたこれである。

 さまざまな災厄を村から祓うべく、犠牲の人形を用いた神送りの行事が日本列島各地に伝えられてきました。風雨を払拭して晴天を祈願するてるてる坊主も、そうした犠牲の人形のひとつに位置づけられるというのです。
 さらに、犠牲の人形をめぐって柳田はその原型にも想像をめぐらせています[柳田1990:452頁]。

これらの人形は決して村の防衛者ではなく……(中略)……邑民ゆうみん全体を代表し一同の受くべき災難を一身に引き受くべきものであったらしい。この風習は多くの民族に共通である。野蛮な人種の中には人形でなく本物の人間を総代に立てるものもある。生きた人ならば屠殺すれば自身また御霊となり、外敵に逆襲するから同時に境の守護ともなって、一挙両得という理屈である。しかし日本では大昔の田舎にもかかる乱暴な便法があったという証拠はない。

 神送りの儀礼において祀り棄てられる犠牲の人形は、災難を一身に引き受ける形代です。その役割を人形ではなく、「総代」すなわち代表となる人間に負わせて「屠殺」する風習もあるというのです。ともあれ、それはあくまでも海外の「野蛮な人種」の例であり、日本ではいまだかつて、そんな乱暴なやりかたが実行された痕跡はないと説明されています。
 いっぽうで柳田は、人間を犠牲とした痕跡を例示してもいます。俎上にのせられたのは、当時の足利(栃木県)に見られたネブタ行事において、災厄を祓うために「人形を流すほかに人もまた水に浴するという点」。そこに目を付けた柳田は次のような解釈を展開しています[柳田1990:459頁]。

人形よりもまた一つ前の形で、事によるとずっと大昔の神送りには、毎季一箇ずつの人命を反故ほぐにしたことのあったという一の論拠になるかも知れぬ。

 災厄を祓う神送りとしておこなわれる足利のネブタ行事。その際に人間が水に浴するのは、災厄を託して人形を流すようになる以前のかたちと推測される。人間が水に浴するのはひょっとすると、かつて災厄を祓うために「人命を反故にしたこと」の名残なのかもしれない。そう柳田はいうのです。
 柳田のこうした解釈については、先ほどから何度か触れてきた赤坂憲雄も注意を促しています。赤坂は、「はるかな大昔のことという留保のうえではあれ、犠牲の人形の以前に、あるいは生身の人間を形代として祀り棄てる神送りの習俗が存在したかもしれぬ可能性を、ここで柳田が示唆している」と指摘しています[赤坂1994:153頁]。
 〈生身の人間〉から〈犠牲の人形〉へという変遷を示唆した柳田の論。それは、回国修行僧(=生身の人間)の身代わりとしててるてる坊主(=犠牲の人形)を位置づけた、先述の小松説に通じるものがあります。

おわりに

 赤坂憲雄が提示した供犠の〈置き換え〉のしくみ。それは、天気のコントロールを図る儀礼においても作用していることを確認できました。
 さて、てるてる坊主はそうしたなかにどう位置づけられるでしょうか。柳田国男はてるてる坊主について、風雨の害を払拭すべく、災厄を一身に引き受けて送られる犠牲の人形と捉えていました。
 それは、供犠の〈置き換え〉のしくみにおいては、〈「人間」カテゴリーの外部〉(❹)に当てはめることができそうです。すると、てるてる坊主を回国修行僧のような遊行する宗教者たちの身代わりと位置づける小松説は、〈共同体の外部〉→〈「人間」カテゴリーの外部〉(❸→❹)という〈置き換え〉にあたるといえるでしょう(★図3参照)。

 もとより、てるてる坊主の由来をはっきりと回国修行僧に求めるような由来譚が存在するわけではありません。先述のように、てるてる坊主と同じ晴天祈願のまじないである中国の掃晴娘には、風習の由来を語る説話が伝えられてきました。対照的に日本のてるてる坊主には、由来譚らしきものはいっさい付随していません。
 それにも関わらず、こんにちでもてるてる坊主の風習そのものは大人から子どもまで広く知られ、ときに実行されているのは不思議なことです。天気のコントロールを図る儀礼における、〈共同体の外部〉→〈「人間」カテゴリーの外部〉(❸→❹)という〈置き換え〉、具体的には「回国修行僧→てるてる坊主」という変遷の構図については、また稿をあらためてじっくり検討できればと思います。

参考文献
・赤坂憲雄『境界の発生』、講談社、2002年(初版は砂子屋書房、1989年。初出は「人身御供譚への序章」〈兵藤裕己・山本ひろ子・赤坂憲雄〔編〕『物語・差別・天皇制』、五月社、1985年〉、および、「穢れの精神史」〈『岩波講座・東洋思想』第16巻、1989年〉)
・赤坂憲雄『漂泊の精神史――柳田国男の発生』、小学館、1994年(初出は「柳田国男の発生」第2章 漂泊の精神史 日知と毛坊主〈『創造の世界』79号、小学館、1991年〉)
・赤坂憲雄『柳田国男を読む』、筑摩書房、2013年(初出は『柳田国男の読み方——もうひとつの民俗学は可能か』(ちくま新書)、筑摩書房、1994年)
・小松和彦「照々坊主の原像 ——小栗判官譚の解読に向けて——」(『基督教文化研究所研究年報 民族と宗教』第24号、基督教文化研究所、1991年)
・陳文良『北京伝統文化便覧』、北京燕山出版社、1992年
・宮田登『民俗宗教論の課題』、未来社、1977年(初出は「いわゆる権威としての天皇信仰」〈『季刊現代宗教』、1975年〉)
・柳田国男「毛坊主考」(『柳田国男全集』11〈ちくま文庫〉、筑摩書房、1990年。初出は郷土研究編輯所〔編〕『郷土研究』2巻4号、郷土研究社、1914年)

参照したWEBサイト
・「『燕京雑考』北京歴史・習慣・風俗の雑記帳」の「晴娘の伝説」(2011年6月1日付け記事)
http://pengzi.maruzen.com/season02/qingniang.htm

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