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聞こえない子どもたち。小さき人々。その人にしか書けない物語。

私は、本ブログ「きたくまノート」で自分の過去、自分自身と向き合い、掘り起こし、書いてきました。

そしてほぼ3年間のなかで、書くことが半年ほど空いたものもあれば、3日とあけず新しく書き上げたものもありました。
なぜ書き続けたのか。
それは「気持ちよかった」からだと思います。

カタルシスがありました。
自分の内奥に押し込めて何重にも梱包していたものを、一枚ずつ皮をはがしていく。それは辛く痛く時間がかかる作業でした。
ずっと何年も心にこびりついていたもの、ふとした拍子に思い出すなんともいえない苦さが、その苦さとは何なのか、なぜ自分がこう抱えてしまっているのか、その理由を自分なりに探しながら書いていきました。
自分の過去についての「証言」です。
書き上げた後、しばらくすると、その、何十年も消えなかった苦さが、不思議と消えていることに気が付いたのです。書けば書くほど「証言」が足されていって、成長し、より大きな浄化の力をもっていったのです。
書くつらさより書き上げた後の爽快感、心の重しがとれた気持ちが上回ってきたのです。
これが浄化か、と自分でも驚きました。

気持ちよくて、どんどん書かないではいられない気持ちになりました。
あれを書こうと思うと、ずっと、どんなふうに書くかどんな順序をとるかそれを考える。当時はどんなことを思っていたのか。それはなぜなのか。どうしてそう思っていたのか。
それは久しぶりの作業でした。

私は高校時代、コミュニケーションの範囲が極端に狭く、ほぼ閉ざされた世界にいました。
他者とのコミュニケーションにおいて、自分はたえず、事前に念入りな準備運動を行い、短くも浅いコミュニケーションをとった後は、会話を頭の中で何時間も何日も反芻しながら、いわば一人反省会をしていたのでした。
それは読書感想文を書く上でも同じでした。
おそらく多くの人が学生時代に、面倒だと感じ、忌避したいと感じていたであろう読書感想文を、私は自分のことを伝える絶好の機会だととらえ、自分なりに添削推敲を重ねていたのでした。

きたくまノートを書き始めると、文体ができあがっていきました。
文体。
このような文体で書こうと思って書いたわけではなく、本当に、このような文体になるとは、書き始めるまで思ってもみませんでした。

自分で読み返したとき、なんだか「文学」みたいなものになってしまったなと思いました。
でもこれは当然の帰結かもしれないとも、思いました。
思えば、自分を救ったのは文学だったから。
文学のなかに、出てくる人たちの心の機微に、心のひだに、自分の、圧倒的に足りない部分を補ってもらえている気がしていたのだろうと思います。
そして、そのように書いたものは、改めて自分の気持ちを整理し、傷を癒してくれたのだと思います。

そして自分は、今、もう書くことがなくなった、と感じています。
まだ書いていない思い出はたくさんありますが、自分のなかに、剝がしたい、ひっかかる、違和感がある、そういう部分がいまのところは見当たらないのです。
現時点で、そういうものになりつつある部分はもちろんあるのですが、それは40年以上生きていればそれなりにできあがる成果物のようなものなのだろうなと思っています。

自分のことで、書くことがなくなった。
じゃあ何を書こう。
と思ったときに、聾学校にいた、複雑さと豊かさをもった愛すべき子どもたちを書こうかと思ったのです。

それがこのブログです。
https://note.com/kkittakkumma

聞こえない子どもたち。
小さき人々。その人にしか書けない物語。

何かを成し遂げた、有名になった、そういう有名人の語りではなく、どこにでもいた、子どもたちの語りを書こうと思いました。

ごくふつうの言葉で語られていた個人的な物語が、集まり、総合的記憶になる。非日常的な輝きをもち、誰もが心のなかにもつ物語に変わっていく。

聴こえない子どもたちの語りは、非論理的だとか、非合理的だとか、きれいじゃないとか、「教える人」「導く人」の語りに比べて、下に見られてきたような気がします。

事件の経緯や歴史としての記録、事実ではなく。
つまらない、くだらないこと、気持ち。小さなこと。
語りのなかに、矛盾があっても、あるがままに受け入れたいと思いました。深く共感しながら話を聞きたいと思いました。
聾学校の先生や親たち、「導く人」「保護者」が語ってきた「ろう教育」を、その場にいた子供たちの語りで、解きなおすことができればと思います。

もちろん語りのなかに、矛盾はあります。
自分のなかにも矛盾はあります。
矛盾を体内にもたない人はおそらくいないでしょう。

人の記憶とはあいまいなものです。誰かに聞いた話を自分のことだと思い込んでいたり、過去を美化していたりすることもあります。
たとえ1つ1つの証言に、美化や嘘があっても、それらがたくさん集まることで、互いに是正され、浄化される。色々な人の色々な証言が響きあい、浄化しあい、輪郭を作っていく。

「戦争は女の顔をしていない」という文学作品があります。
このブログを書く上で、私は「戦争は女の顔をしていない」から大きな影響を受けました。
これは第二次世界大戦中、ソ連軍に従軍した女性たちの姿を500人を超える証言者の声によって書き出した作品です。

同列に語ることは到底できませんが、著者アレクシエーヴィチの、深く共感し心を寄せながら話を聞く姿勢を肝に銘じたいと思っています。

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