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【歴史概要122】フィレンツェ・メディチ家・虚飾の焼却・免罪符(贖宥状)

①フィレンツェの起源はエトルリア人時代に遡る。

ローマ時代も重要な拠点都市でありキリスト教公認後は司教都市となりゲルマン民族のランゴバルド族が国家を建設した際も主要拠点となった。

②中世には十字軍の恩恵を受け、ミラノ仲介貿易の商業活動も行われた。毛織物や絹織物といった工業が発展に寄与した。

③金融都市でもあった。叙任権闘争が行われていた時代にイタリアの都市は教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)に分かれて対立したがフィレンツェは教皇派となり教皇庁の財政を握った。

④教皇派は教皇密着の都市貴族勢力(黒党)と自主的な立場を主張する浮遊市民を中心とした勢力(白党)に分かれて対立した。

⑤ダンテは白党に属していたが14世紀初頭に黒党による政権奪取が行われるとフィレンツェを追放され北イタリアの各地を放浪した。放浪中に『神曲』は書かれたものでラヴェンナで完成した。

⑥中世キリスト教神学である『神学大全』をダンテなりに再構築してトスカナ方言で書いたイタリア国民文学の端緒となった。

⑦イタリアでは封建制の発展はほとんどなくドイツの中世都市とは異なった都市と周辺農民が一体化したコムーネといわれる独特の都市共和国が成立した。

⑧13世紀にはポデスタといわれる行政職が出てきた。中産市民の発言力が増して民長(カピタノ・デル・ポポロ)といわれる官職が作られ民長が権力を握った。

⑨14世紀のフィレンツェはポデスタや民長による独裁に対して下層市民たちがチオンピ(毛織物の末端労働者)の乱を起こした。

反乱は鎮圧された。このなかでメディチ家が台頭してきた。

⑩メディチ家は金融業を営んでいたが名前から薬屋や医者という職業も連想される。銀行業によって教皇庁と密接関係を築いた。

⑪15世紀半ばのコジモ・ド・メディチの時代にヨーロッパの銀行ルートを支配してフィレンツェの政治権力を確立した。

⑫息子のピエロは病弱であったが繁栄を維持した。孫のロレンツォの時代が外交や政治的に才能を示した。この時代が最盛期でありボッティチェリやミケランジェロを保護した。

⑬銀行の内実は巨額の赤字を抱えていた。公金の横領やロレンツォが亡くなりシャルル8世のイタリア侵入、フランス軍への対応を誤ったことでメディチ家はフィレンツェを追放された。

⑭この際にドミニコ派の修道士サヴォナローラが台頭した。綱紀の粛正を叫びルネサンスの奢侈品を焼却した。

⑮虚飾の焼却を行い一時期に支持されたが極端な禁欲生活を強制し始めた。市民たちの不満によって最後は火刑となった。

⑯16世紀初頭にメディチ家はハプスブルク家からサポートを受けてフィレンツェに戻って来た。そして政治力を駆使して当主ジョヴァンニが教皇レオ10世として即位した。サン・ピエトロ寺院の改革と免罪符(贖宥状)販売を推進した。

⑰続いてレオ10世の従兄弟のジュリオはクレメンス7世として教皇となった。イタリア戦争が再燃している時代であった。1527年に神聖ローマ帝国軍によるローマ略奪事件が起こった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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