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【歴史概要107】太平天国の乱・郷勇・捻軍の乱

①アヘン戦争後は庶民への重税、失業者の増加、天災などが起こり社会は混乱していた。

②混乱のなかで多くの民間結社が結成されたが洪秀全の拝上帝会が有名である。洪秀全は自らを上帝(=エホバ)の次男でキリストの弟とし拝上帝会を開いた。

③キリスト教の影響を受けているが「天朝田畝(てんぽ)制度」は中国古来の土地公有思想と重なり地盤的な要素も入っている。

1851年に江西省金田村で太平天国を建国した。これが太平天国の乱である。

④スローガンの一つである滅満興漢は満州人支配に対する漢民族の民族意識の表れである。この戦いは清朝によって強制されていた辮髪を否定したので長髪族の乱ともいわれる。

⑤女性纏足を禁止して男女平等社会の実現を目指すなど革新的な要素も孕んでいた。主に反乱をしていたのは圧倒的な貧民たちであった。最盛期には300万の信者がいたと云われている。

⑥政府軍の巻き返しにより少しずつ崩されていった。また内部対立が起こり洪秀全は一族以外信用しなくなった。1864年に洪秀全は自害し太平天国の乱は収拾された。

⑦反乱を抑えたのは清朝の正規兵である八旗ではなく郷勇という義勇軍であった。代表は曽国藩や李鴻章であった。彼らにより太平天国の乱は鎮圧された。やがて郷勇は軍閥化する。

⑧この反乱中にアロー号戦争が起きたが終結後に西欧列強は太平天国より清朝の方が交渉しやすい事から清朝をサポートした。

⑨傭兵軍である常勝軍が活躍した。指揮官のゴードンは後にアフリカでマフディーの乱鎮圧に参加して戦死した。

⑩太平天国の乱に乗じて、中国南部から揚子江中・下流域を舞台にして捻軍の乱が起こった。塩の密売業者や遊侠が主導した乱であったが郷勇に鎮圧された。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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