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【歴史概要108】アロー号事件・天津条約・同治中興

①イギリスはアヘン戦争に勝利して5つの港を開かせた。
しかし中国内部への進出は認められていなかった。
反英運動も盛んであり綿製品などの貿易量は増えなかった。

②1856年に中国がイギリス船籍を持った中国船
アロー号を海賊容疑で検問して一部成員を逮捕した。
そしてイギリス国旗を引きずり下ろした。

③イギリスはこれに抗議して逮捕の
正統性を主張した中国側との交渉は決裂した。

④この事件が起きた段階でアロー号はイギリス船籍をなくしていたため中国側には過失はなかったとイギリスの政治家コブデンが証言をしている。

⑤イギリスではパーマストンが議会解散をして戦争に踏み切った。フランスのナポレオン3世もフランス人宣教師が清の官憲に倒された事件を口実に協調出兵をした。

⑥英仏連合軍は1858年に広東を占領した。北上して天津まで軍を進めた。

こうして天津条約が締結された。

⑦主に外交使節の北京駐在を認める、長江(揚子江)の開放、外国人の中国国内旅行の自由化、南京を筆頭に10港の開港、キリスト教の信仰と布教の自由、賠償金の支払い、またアヘン貿易の自由などである。

⑧しかし天津条約には反対論が多く連合軍が天津から撤退した後に再交渉が行われた。また英仏両国公使の乗った船が砲撃されるという事件が起きた。こうして戦闘が再開された。

⑨1860年に連合軍は北京を占領した。ロシア仲介で北京条約が調印された。天津条約に加え天津が開港されて九龍半島の一部がイギリスに割譲された。賠償金支払いと総理各国事務衙門(外務省)が設置される事となった。

⑩これにより中国の農村工業は打撃を受けた。
中国は西欧列強の半植民地となった。

⑪アヘン戦争、アロー号事件、太平天国の乱で清王朝は国家再興をはかろうと動いた。咸豊帝(9代目)に続く同治帝(10代目)は幼かったので叔父の奕訢(えききん)が実権を握った。

⑫従来の排外主義から西欧文明を導入して国家再建を目指した。これが洋務運動である。

⑬中体西用というスローガンを導入した。西洋の進んだ技術で近代産業を育成して富国強兵を行う。それにより皇帝専制体制の強化を行うものだ。

⑭主に曽国藩や李鴻章、左宗棠(さそうとう)などの漢人官僚が登用された。鉱山開発、鉄道敷設、近代海軍の創設などを行った。

⑮1870年代は対外関係は安定しており同治中興(=同治帝に因む)といわれる安定期であった。同時期には近代日本が樹立され1890年代になると近代日本に敗北し改めて改革を模索する事となる。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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