見出し画像

【歴史概要42】ニューギニア・東ティモールの話

①ニューギニア島には大航海時代にオランダとポルトガルが
来訪していた。しかし気候条件が厳しく開発が進行しなかった。

②帝国主義の時代に列強が進出し、島の西半分をオランダが、
東半分の北側をドイツが、南側をイギリスがそれぞれ領有した。
その後イギリス領部分はオーストラリアが継承した。

③第1次世界大戦でドイツが敗れた結果、東部ニューギニアはドイツ領であった太平洋の島々とともにオーストリラリアの委任統治領になった。第2次世界大戦で日本が委任統治領部分を占領した。

④この地域で日本軍とオーストラリア軍の戦闘が続いた。戦後、オーストラリア統治下の国連信託統治領となりさまざまな制度を整え1975年に正式に独立した。

⑤国内では800あまりの言語が話されており、部族の団結意識が強い一方対立は多く政治は不安定である。鉱物資源が豊富なブーゲンビル島の独立問題が激化しており不安定要素が膨らんでいる。

⑥西部ニューギニアはインドネシアではイリアンジャヤ(西イリアン州)という。第2次世界大戦後である1949年にオランダはインドネシアの独立を認めた。しかし西ニューギニアはオランダ領のまま1961年には西パプワ共和国を独立させた。

⑦こうしてインドネシアは武力侵攻を開始した。この問題の調停はアメリカ大統領のケネディが行った。西ニューギニアをいったん国連の管理かに置き1963年にインドネシアの管理に移行した。その6年後に住民投票で帰属決定する事を合意した。

⑧しかし1965年にインドネシアで起きたクーデターによって軍部が政権を握り西ニューギニアの反政府派の住民を弾圧した。

1969年に形式的にインドネシアへの編入が成立した。この地域はパプア・ニューギニアとの連合の希望者が多くインドネシア政府と対立し続けている。

⑨ティモール島はインドネシア地域全体のやや東にある。この島の東部分は16世紀以来ポルトガルの植民地であった。インドネシア独立の際もポルトガルの支配下にとどまっていた。

⑩ポルトガルでサラザール政権が崩壊して民主化が進むとポルトガルは海外植民地への自決権を認めた。

⑪東ティモール内にいくつかの政治勢力ができた。そのなかのティモール社会民主協議会(数十年間の準備後の独立)と東ティモール独立革命戦線(即時独立)の間で内戦が始まった。

⑫この内戦にインドネシアが右派勢力と協力して介入した。1976年に制圧された。ここはインドネシア27番目の州として併合された。西側諸国はインドネシアの政策を容認してインドネシアは反対勢力に弾圧を加えて20万もの東ティモール人が虐殺された。

⑬1998年にインドネシアのスハルト政権が崩壊してハビビ政権が成立すると東ティモールの特別自治権付与の是非を問う国民投票を認めた。これが否決されたことで2002年に独立した。

⑭2006年にはティモール島内の飛び地となった西部地区出身の軍人が西部地区住民に対する差別待遇の不満からストライキに入った。政府は彼らを解雇したが国軍のなかで同情する勢力もあり首都は混乱した。この混乱の収拾でオーストラリア軍が進駐するなど安定化には問題が残されている事などを学びました。

■参考文献
『ライバル国からよむ世界史』 関 眞興 日本経済新聞出版社


この記事が参加している募集

世界史がすき

学習教材(数百円)に使います。