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【歴史概要4】隋・唐帝国の話

①581年に文帝(楊堅)によって隋は建国された。589年に南朝の陳を打倒し中国を後漢以来約400年ぶりに統一をした。

②隋では魏晋南北朝時代の均田制や府兵制、租庸調などを
継承し官吏登用制度として九品中正法から学科試験に基づく選挙(科挙)を実施した。

③2代目である煬帝(楊広)は都の大興城と黄河、北京から黄河、黄河沿いの洛陽と揚子江の揚州、南方の杭州をそれぞれ結ぶ運河を完成した。江南の経済力が大きなものになっていたからだ。

④煬帝は3度にわたり高句麗遠征を行うが、失敗した。その後江南の揚州で豪奢な生活を送ったが部下に暗殺された。隋は滅亡したが、その制度は唐に継承され強固な体制を形成していった。

⑤唐は高祖(李淵)が建国し2代目の太宗(李世民)によって体制は確立した。律令格式の法体系、三省六部の官僚制、均田制・租庸調性・府兵制を軸にして国家を形成した。大土地所有者を押さえ、科挙官僚を登用した。

⑥太宗の時代は貞観の治という安定期であったが旧来の貴族は存続し、新官僚が貴族化し宦官が力を持ち三つ巴の対立となった。

⑥唐と新羅は660年に軍事同盟が成立し連合軍が百済を滅ぼす。
百済の王族の鬼室福信は倭に支援を要請した。

⑦663年に唐と新羅の連合軍は海陸から百済を攻撃した。陸上の戦いで百済に壊滅的な打撃を与えた。これに続き倭の軍船は白村江(錦江)に向かうが、唐の軍船に敗北した。

⑧唐と新羅の連合軍は白村江の戦いの勢いで668年に高句麗を滅亡させた。新羅は朝鮮半島を統一したが唐が脅威となっていく。670年から唐と新羅は戦闘となり676年に新羅は勝利し、唐は安東都護府を遼東に移した。

⑨統一新羅は中央主権国家建立のため唐の制度が導入される。骨品制と仏教を採用し慶州を中心に仏教文化が花開き、日本に影響を及ぼした。

⑩中大兄皇子は668年までは白村江の戦いの指導、敗戦後の国防強化に尽力しており668年には天智天皇(38代目)として即位した。この後壬申の乱が起き大海人皇子が天武天皇(40代目)となった。ここから大王から天皇の称号が使われるようになる。

⑪875年には黄巣の乱が起こり塩に利権を求める密売人が反乱を起こした。河南地方の藩師・朱全忠は唐の朝廷を自身の本拠地に移動し勢力を拡大していった。

907年に哀帝より禅譲を受けることで後梁が生まれ唐は滅亡した。ここからは五代十国時代へ転じていく。

■参考文献
『滅亡から読み解く世界史』 関 眞興 実業之日本社
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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