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【歴史概要106】アヘン戦争・南京条約・欧米の不平等条約

①1840年にイギリス本国議会でも開戦が決定された。40隻を超える軍艦や補給船、四千の兵士が派遣されて本格開戦となった。イギリス軍の司令官はジョージ・エリオットであった。

②ジョージ・エリオットは林則徐が防衛線を建設していた広東は避けて艦隊を北上させた。北京に近い天津まで迫った。

③清朝政府は林則徐を戦争挑発の張本人として罷免した。琦善(きぜん)を欽差大臣として交渉にあたらせて川鼻仮(せんびかり)条約で香港の割譲などを約束した。しかし清の強硬派によって琦善は罷免され戦闘は再開した。

④次の亦山(えきさん)は広東の武力を増強しイギリスと戦った。イギリス政府はポティンジャーを派遣して厦門(アモイ)、舟山(しゅうざん)諸島、寧波(ニンポー)、上海や鎮江などを落として南京に向かった。

⑤1841年には平英団を名乗る1万の農民ゲリラ兵がイギリス軍を撃破した。

清の正規兵である八旗に変わる新兵団のあり方を象徴する事件であった。1842年にイギリス優位の南京条約が締結された。

⑥南京条約は13ヶ条からなっている。

主に香港島の割譲、広州(広東)・厦門・福州・寧波・上海の5港開港・開港場に領事を置く事・戦費・没収アヘンなどの賠償金2100万ドルの支払い・公行の廃止である。

⑦続いて五港通商章程が結ばれ、領事裁判権が規定された。虎門寨(こもんさい)条約では最恵国待遇条項が約束された。こうして清の海禁政策(鎖国)を打ち破り、関税自主権を認めさせた。

⑧しかしアヘンに関する取り決めがなかった。

アヘンの密輸入はその後も行われていた。この後にフランスは黄埔条約、アメリカは望厦条約というイギリスとほぼ同内容の不平等条項を認めさせた。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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