見出し画像

マイルス・デイヴィスのニューヨーク進出

【マイルス・デューイ・デイヴィス三世(Miles Dewey Davis III)】

1926年5月26日イリノイ州オールトン生まれ。その後すぐに東セントルイスに引っ越す。父親は歯科医、母親は音楽の先生。2つの歯科病院を開業、農場を持つという非常に裕福な家庭で育つ

1944年:マイルスが18歳の時に、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団がやってきて、そこでマイルスは病気のメンバーの代役を務めることになり、楽団メンバーのディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー(バード)と共演して、マイルスはニューヨーク行きを決意。

1944年9月
ニューヨークにやって来たマイルスは、ジュリアード音楽院に通うも1945年に中退。
その後バードとルームメイトとして1年間暮らしながら当時最先端のビバップ・ムーブメントの中に身を置きます。

1947年4月
ニューヨークに戻ったバードが新しいグループ結成
マイルスも参加します。

1948年末:マイルスはバードのグループから脱退


バードの『ビ・バップ』は、ジャズ・アーティストに限らず、多くの音楽関係者に大きな影響を与えました。
しかし、バードという一人の天才の繰り出す即興演奏に追随できるほどの、テクニックを持ったミュージシャンは少なく、バードの演奏を真似するだけの同じようなアドリブになって停滞感が漂っていきます。
マイルスは新しい方向性を目指して、脱退します。

【Birth of Cool】

マイルスは、ギル・エバンス(ユダヤ系カナダ人ピアニスト・編曲家)との親交を深め、黒人コミュニティでは聴く機会がなかった様々な西洋音楽を学びます。

アドリブを重視しないアンサンブル重視の「クール」な楽曲、バードの『ビ・バップ』とは真逆のアプローチ

ノネット(9重奏団)を率いて、作り込まれた音楽を目指した作品(ホルンやチューバなどジャズでは珍しい楽器が入っている)リー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用
メンバーが『白人と黒人の混成編成』は当時としては珍しいことです。


パリ・フェスティヴァル・インターナショナル



パリでの国際ジャズ・フェスティバルに参加(マイルス初の海外公演)『クールの誕生』制作と同時期ですが、このライブでは『ビ・バップ』の演奏を繰り広げています。

パリでは『ビ・バップ』の人気が高くジャズは文化として評価されており、マイルスは大歓迎を受けスターとして扱われました。

パリ滞在中にマイルスは、サルトルやピカソに会ったり、歌手のジュリエット・グレコ(Juliette Gréco)と恋に落ちたりといった大きな経験をします。

帰国後マイルスは、アメリカの『人種差別』『ジャズに対する評価の低さ』と、パリの現状とのギャップに心を痛め薬物依存症へ。

1950年以降のマイルスは、完全な薬物ジャンキーとなっていき、9月にロサンゼルスでヘロインの不法所持で捕まり投獄されます。この件でマイルスのジャンキーぶりが世間に知れ渡り、仕事を見つけるのに苦労することになっていきます。(マイルスの暗黒時代は1954年に復活するまで続きます。)


1949 年4月にリリースされた2枚組シングル『Israel』『Boplicity』は評判になることはなく、商業的な成功や評価には結びつきませんでした。
バードと真逆のアンサンブル重視の「クール」な楽曲は

✅ 黒人社会では『西洋音楽や白人社会への嫌悪感』もあってウケなかった
✅ 「レイス・レコード」というカテゴリーで白人社会には届かなかった 

しかし『クール・ジャズ』は、映画産業で繁栄中の西海岸の白人ジャズ・アーティストに多大な影響を与え、後の『ウエストコースト・ジャズ』として白人社会を中心に大ブームになります。


キャピトル・レコードからアルバムとしてリリースされたのは

1954年:「Classics in Jazz: Miles Davis」として8曲をリリース。

1957年:11曲を収録したアルバム「Birth of the Cool」としてリリース。

1950年初頭において、バード人気に比べるとマイルスはまだまだで、白人マーケットへの情宣は行われなかったのでしょう。

小川隆夫著書『マイルス・デイヴィス大事典』の「Birth of Cool」の解説をお借りすると

『小型オーケストラ』の構想を実現したアルバム。『編成を最小に絞ったオーケストラの中で繊細な音楽を表現すること、オーケストレーションとソロイストの理想的な繋がり』これが本作の聴きどころ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?