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「オシャレすることが平和の象徴」とするサプール文化がなぜ生まれた?⑤

コンゴ共和国(Republic of Congo)におけるサプール文化の起源についてご説明します。

19世紀末のアフリカ分割の時代にはいると、フランス政府は探検家
ピエール・サヴォルニャン・ド・ブラザ(Pierre Savorgnan de Brazza)
を派遣してガボンのオゴウェ川流域からさらにコンゴ川流域にまで勢力を広げて、フランス領コンゴの礎石を築きます。

ピエール・サヴォルニャン・ド・ブラザ

彼は1852年にイタリアで生まれ、フランス海軍に入隊し、その後フランス政府のためにアフリカ探検の任務に就きました。

彼は地元の首長たちとの交渉を通じて、この地域におけるフランスの権益を保証する保護条約を結びます。これにより、これらの地域はフランスの勢力圏となり、フランス領コンゴとして組織化されました。

ブラザの人間性と彼のアフリカの人々に対する比較的友好的な態度は「善良な植民地主義者」として評価されることもありました。

彼の名前は、コンゴ共和国の首都ブラザビルは、彼の名前に因んで名付けられており、彼の業績を今日でも象徴しています。

 
1905年にダカールで赤痢のため急死し、国葬の後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、夫人の手によりアルジェに改葬されました。

フランス領コンゴにおける植民地政策は、少なくとも表面上は、植民地の「文明化」や「開発」を目指していました。
しかし、地元の人々にとっては、労働力を強制的に徴収され、新しい経済体制と社会秩序の中で生きることを強いられました。
困難で苦痛なものであったことは間違いありません。



アンドレ・マツワ(André Matswa Grenard)


アンドレ・マツワは 1899年 1月 17日、現在のコンゴ共和国の首都であるプラザピ ル市から西へ約 60km離れたマンザカラ(現在のキンカラ)生まれ。

幼少の彼の記録は、ほとんど残っていません。
ンパム (M'Bamou)地区のカト リック系の学校に 4年開通っていたことは記録されていて、成績優秀で、伝道教育を受け、やがてマヤマ (Mayama)地区における教理問答の教師となります。


数年後、マツワは教理問答の教師という立場を捨て、ブラザビル行きの決意します。

1919年には当時、赤道フランス領赤道アフリカの総督府であったプラザピルで、税官吏の職に就きます。

マツワは、支配者である白人と身近に接する黒人の話から、植民地統治によって引き起こされているさまざまな社会問題、黒人が直面している厳しい現実の状況を目の当たりにしたのです。


マツワは、仕事をしながらフランス人との接点も多り、植民地社会で地位を得て、黒人の生活向上は、白人の「知識」を習得していくことによって成し遂げられると考えていたようです。


その後、マツワはヨーロッパ行きを決意します。
ボルドー、マルセイユ、そしてリフ戦争(1920~26年、スペイン領の北モロッコ、リーフ地方で起こった反植民地戦争)に「セネガルの 狙撃兵」の一員として参加します。

そこで彼は
「組織的な反抗運動が植民者に対する抵抗を可能にする」
ことを学んだと思われます。

パリに戻ったマツワは病院の会計係の職に就き、フランス市民権を取得して、フランス政府が、植民地からフランスに来た現地人のための教育機関として設けていた夜間学校に働きながら通うようになります。

1926年7月17日:4人のコンゴ人と協力して、黒人の劣位を是正することを目的としたアミカル (友愛協会) という組織を設立します。



フランスは、移民受け入れ国として長い歴史があり、「人種のるつぼ」と言われますが、その一方で、移民と非移民(フランス人)の間には歴然とした経済的・社会的格差があります。

マツワの活動は、フランス人と同等の市民権を求めるもの(黒人差別反対の運動)であり、これは当時としては非常に先進的なものでした。

この組織は、フランス本国だけでなく、コンゴやガボン、中央アフリカの主要都市でも支持されました。

しかし、活動の中心人物であるマツワは、やがてフランスから注意人物としてマークされるようになります。


 1929年12月:マツワは逮捕されます。
逮捕の理由は『現金の不正取引容疑』で口実にすぎません。

彼の活動に対する反響 がフランス政府の想像よりも大きく、それが独立への機運と繋がる危険性を感じたからなのです。


マツワが逮捕されてコンゴに送還され、飛行機から降り立ったマツワの姿は、西洋の装いでカッコよく、コンゴ人は度肝を抜かされたというエピソードがあります。


植民地時代の白人支配者は見た目によって地位を示していました。


マツワが飛行機から降りてきたときの洗練された装いは、コンゴ人が文化的にも経済的にも白人と同等であることを証明しようと考え方を具現化したものなのです。


マツワが亡くなった後も、彼の理念は「マツワニズム」として広く受け入れられ、コンゴの人々の間で大きな影響力を持ち続けました。

「マツワニズム」は一種の宗教運動として発展し、マツワを聖人のように崇めるとともに、彼が掲げた平等と自立の理念を引き継ぎます。


これが、コンゴ共和国のサプール文化の起源であると言われています。

©SAP CHANO

お洒落をすることは『自分をより良く見せる手段』という感覚を持つ人も多いでしょう。

「オシャレすることが平和の象徴」


サプールというコミュニティが組織のような役割を果たして、「平和」というキャンペーンを華麗に推進するソーシャル・マーケティングなのです。



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