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ナイジェリアが教えてくれる日本が出来る「市場創造イノベーション」のヒント

国が繁栄するためには「市場創造型イノベーション」に投資した時

「市場創造イノベーション」
値段が高く複雑なプロダクトを、多くの人が買える手ごろな価格に下げ、多くの人が購入して使用できる入手性の高いプロダクトに変えること

「顧客のジョブ」が解決されずに「無消費」状態になる。

「無消費」
潜在的な消費者が生活のなかにある部分を進歩させたいと切望しながら、今はまだ経済的な理由や幾つかの制約によってプロダクトやサービスを購入できていない状態、もしくは、顧客のジョブを解決するプロダクトやサービスがなく市場が形成されていない状態を指す

「無消費」の要因として4つを挙げています。
1.消費者のスキルのバリア
2.資産(経済的理由)のバリア
3.アクセス(地理的)のバリア
4.時間(利用に時間がかかる)のバリア

「無消費の発見」と「バリアの解消」が、「市場創造型イノベーション」につながるヒントとしています。

この本の中で、貧困にあえぐナイジェリアにおいて、民間企業が料理をする際にスキルの要らない「インスタントヌードル」、貧困を解消するための「教育サービス」を提供した例が出てきます。
この例は、強要(プッシュ)したのではなく、貧困の解消というジョブにあった資産とスキルのバリアを解消し、顧客の成長を促したのです。


逆に、公衆トイレの少なかったインドでは衛生状態が悪化するという社会課題から、政府主導でトイレを設置したのですが、メンテナンスされずに、より衛生状態が悪化した例が挙げられています。
これは、変化を強要する「プッシュ」では成果が出ず、効果が限定もしくは、悪化するということを説明しています。



ノリウッド (Nollywood)


ハリウッド、ボリウッド(インド映画の製作中心地ムンバイの俗称)に続くナイジェリア映画産業「ノリウッド(Nollywood)」

ナイジェリアので映画産業が立ち上がったきっかけは?
1990年代に日本や中国から大量に仕入れたVHS カセットテープの販売を目論む電子機器店主ケネス・ネブエの試みでした。
ケネス・ネブエは、『リヴィング・イン・バンデッジ』という映画を制作してVHSにコピーして販売するというビジネスモデルを開発しました。
この『リヴィング・イン・バンデッジ』は大ヒット!

この成功により、ナイジェリアの映画産業は急速に発展し、「ノリウッド」という言葉が生まれました。

「ノリウッド」では、年間約2000本の映画を制作されていて、作品の大半が市販のデジタルカメラで短期間に撮影された低予算映画です。
映画の中では麻薬や人身売買といった社会問題を取り上げつつも、最後はハッピーエンドで締めくくるという特徴があります。

アメリカ合衆国の動画配信サービスNetflixは、10本以上のノリウッド映画を全世界に向けて配信しています。
南アフリカ共和国の有料テレビ放送事業者「マルチチョイス」はナイジェリアの映画専門チャンネルを4つ開設しました。

これらの特徴から、「ノリウッド」が映画産業だけでなく、文化交流や社会問題の認識にも大きな影響を与えていることがわかります。

1960年代ごろからナイジェリアには映画文化がありました。
80年代の軍事政権下で、映画館は閉鎖されテレビ局への予算は減らされ、文化が圧迫されていきました。

ナイジェリアに限らず、アフリカ人は自分のストーリーを語るのが大好で、90年代のデジタル技術が発展によって、自分たちの手で自分たちのリアルな生活を撮影することが簡単にできるようになったのです。


アフリカにはDIY精神が根づいています。


流通方法やインターネット環境の普及によって、ノリウッド映画が普及していったのです。


「無消費の発見」と「バリアの解消」を行った「市場創造型イノベーション」の事例です


ナイジェリアの音楽


ナイジェリアの音楽は、数百もの民族と言語から成るこの国の豊かな文化から生まれました。伝統的な楽器、例えばトーキングドラム、ウドゥ(陶製のドラム)、シェケレ(ビーズで覆われた打楽器)が音楽に独特のリズムと響きを加えています。これらの楽器は、祭り、儀式、日常生活の中で今なお重要な役割を果たしています。

20世紀初頭には、「ハイライフ」と「ジュジュ」というジャンルがナイジェリア音楽シーンを席巻しました。

「ハイライフ」
ガーナから伝わった音楽スタイルで、ジャズやカリプソの影響を受けている「ジュジュ」
ヨルバの伝統音楽にモダンな要素を融合させたもの


アフロビートの革新

1960年代後半から1970年代にかけて、フェラ・クティはアフロビートを創造し、ナイジェリア音楽に新たな次元をもたらしました。

「アフロビート」
ファンクやジャズの流れをくむナイジェリア起源のアフリカ音楽で、アフリカのパーカッションを用いたテンポよく明るい音楽

「アフロビート」の創始者:フェラ・クティ(Fela Kuti)

フェラ・クティは1938年にラゴス北部にあるアベオクタに生まれました。1963年ロンドン・トリニティ音楽大学卒業後、本格的に音楽活動を開始。

1969年のアメリカツアーでジェームズ・ブラウンのファンクと出会い、黒人差別の経験や、マルコムXやブラックパンサー党に関心を持ち始めたことで、彼の音楽はアフリカ色を強め、政治的なメッセージが強いものへと変貌していきました。

彼は自らの音楽を「アフロビート」と称しました。

ナイジェリアに帰国したフェラ・クティの音楽は、多くの国民の支持を集めめて伝説的な存在となっていきました。

彼は何度となく逮捕(全て証拠不十分で釈放)されましたが、黒人の解放、アフリカの統一を訴え、腐敗したナイジェリア政府と戦い続けました。


''ジュジュ'' の第一人者:エベネザー・オベイ(Ebenezer Obey)

エベネザー・オベイは、1942年にオグン州イドゴで生まれました。
ヨルバ族のポピュラー音楽 ''ジュジュ'' の第一人者として60年代から活躍するミュージシャンです。


「アフリカのボブ・マーリー」:キング・サニー・アデ(King Sunny Adé)

彼は1946年、ナイジェリア西部オンド州にある西アフリカ最大の民族集団ヨルバ族の王家で、サンデー・アデニイ・アデゲイとして生まれました。

1982年アイランド・レコード(ボブ・マーリーが所属していた)と契約してアルバム「Juju Music」をリリース

当時、ニューヨーク・タイムズは、このアルバムを「今年、もっとも斬新なダンス・ミュージック・アルバム」と評し、後に「アメリカでのワールド・ミュージック・ムーブメント」の始まりだったとも評価しました。


現代ナイジェリア音楽シーンのトレンド


今日のナイジェリア音楽シーンは、アフロビート、アフロポップ、アフロフュージョンといったジャンルで国際的な成功を収めています。

バーニャ・ボーイ、ダヴィド、ウィズキッドといったアーティストは、世界中のチャートでトップを飾り、国際的な音楽賞を受賞しています。



ナイジェリア音楽は、エンターテインメントの側面だけでなく、社会的、政治的メッセージを伝える手段としても機能しています。

多くのアーティストが、不正義、貧困、不平等といった社会問題に光を当て、変革を促すための強力なツールとして音楽を使用しています。


ナイジェリア音楽の国際的成功は、音楽産業だけでなく、広告、映画、ファッション、そしてテクノロジーといった他の産業にも影響を及ぼしています。
ナイジェリアのアーティストや音楽がグローバルブランドのキャンペーンや映画のサウンドトラックでフィーチャーされることは珍しくなく、これによりナイジェリアの文化的影響力が拡大しています。


テクノロジーの進歩とインターネットの普及により、ナイジェリアのアーティストは世界中のリスナーに直接アクセスできるようになり、その創造性と才能をさらに広げることができます。

また、音楽を通じてナイジェリア及びアフリカ全土の多様な文化を世界に紹介することで、国際的な理解と共感を深める機会を提供しています。


このような現象は、日本がアフリカ諸国に対してサポートできるヒントのような気がします。

ビジネスパーソンにとって新たな市場機会を模索し、文化的トレンドをビジネス戦略に組み込む重要性を示唆しています。



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