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大湖地域で相互に関係する紛争


コンゴ民主共和国の歴史において、1990年代に大湖地域で相互に関係する三度おきた紛争を知っておかなければなりません。

<大湖地域とは?>
アフリカ大地溝帯には、世界第二位の大きさであるビクトリア湖をはじめ、いくつかの湖があり、 水は北へ白ナイル、西へコンゴ川、南へザンベジ川を経て、地中海、大西洋、インド洋にそれぞれつながるこの水域と周辺を大湖地域と呼びます。

この太湖地域で起こった紛争は?

1994年:ルワンダ虐殺
1996年~1997年:第一次コンゴ戦争
1998年~2003年:第二次コンゴ戦争

この紛争(&戦争)で隣国である『ルワンダ共和国』と『ブルジン共和国』のことを簡単に説明しておかなければなりません。


ルワンダ共和国(Republic of Rwanda)


 ルワンダは、面積は比較的小さいですが非常に人口密度が高いことで知られています。
北部と西部は山岳地帯で、東部にはサバナ地帯が広がっています。
首都はキガリで、最大の都市でもあります。
(上図の緑色部分がルワンダ。オレンジ色部分がコンゴ民主共和国)

ルワンダは主に3つの民族集団で構成されています。

ハツ族が85%を占め、ツチ族が14%トゥワ族が1%を占めています。

ルワンダの経済は主に農業に依存しており、特にコーヒーや茶が主要な輸出商品となっています。


ルワンダ虐殺


1994年4月から7月にかけてルワンダ共和国で発生した大量虐殺事件です。

主にハツ族によってツチ族と穏健派のハツ族が大量に殺害されました。

この虐殺によって、ツチ族と穏健派ハツ族がおよそ50万人から100万人(いくつかの推定ではさらに多く)が死亡しました。

虐殺はわずか100日間で行われ、その間にルワンダの人口の10%以上が失われたのです。


背景

ルワンダのハツ族とツチ族の間には、殖民地時代に欧州によって植え付けられた社会的な階級意識が存在しました。
この間の緊張は、1990年にツチ族の反政府勢力ルワンダ愛国戦線(RPF)がルワンダ政府に対して反乱を起こしたことで増大します。

その後の数年間で、ハツ族主導のルワンダ政府は、ハツ族に対するツチ族の脅威に対抗するために、ハツ族に対して民兵組織を結成し、武器を配布するなどしていきました。


虐殺の開始

【両大統領暗殺事件】
1994年4月6日に、当時のルワンダ大統領ユヴェナル・ハビャリマナ(ハツ族)とブルンジ大統領シプリアン・ニヤミラの両大統領が乗っていた飛行機が墜落したことから始まりました。
この事件によって両大統領が死亡し、それが即座にツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)によるテロ行為とされました。(しかし、実際の墜落原因は依然として不明確です)。

国際社会の対応

虐殺が進行している中、国際社会の対応は不十分。
国連安全保障理事会は、虐殺が始まった直後にルワンダ国連支援団(UNAMIR)の兵力を大幅に削減しました。

その後、虐殺が大規模なものであると認識されると、兵力が再度増やされましたが、その時点で大虐殺の大部分は既に終わっており、ほぼ終結していました。


終結とその後

7月に入ると、ルワンダ愛国戦線(RPF)が首都キガリを制圧し、虐殺は終結しました。しかし、この時点で、ツチ族と穏健派ハツ族の数十万人が既に虐殺されていました。

そして、虐殺に関与したハツ族の多くが、報復の恐怖から国を離れ、隣国へと大量に流出しました。これにより、ルワンダだけでなく、隣国であるザイールやタンザニア、ウガンダにも混乱が広がっていきます。
 
虐殺後、国際刑事法廷(ICTR)が設立され、虐殺の主要な指導者たちが訴追されます。

数十万人とも言われる一般市民による参加者や共犯者の処罰は、大規模で長期的な問題となりました。

 
ルワンダ虐殺は、20世紀最悪の人道的危機の一つと見なされています。

 
国際社会が十分な対応をとるのに失敗した結果、大量の人々が亡くなり、大規模な人道的危機が引き起こされました。

この事件は、国際社会が人道的危機に対して迅速かつ適切に対応する重要性を示す、悲劇的な教訓です。

コンゴ民主共和国東部の難民キャンプ



惨殺首謀者(フツ過激派)が難民85万人とともにコンゴ東部に逃げ込みます。これがコンゴ東部における民族対立を再燃させたのです。

フツ過激派は越境して新ルワンダ(RPF)政権だけでなく、コンゴ軍や地元民兵(マイマイ)とともに、ツチ族住民への攻撃を始めます。


【RPF(Rwandan Patriotic Front)ルワンダ愛国戦線】

1980年代末にウガンダで設立された主にトゥツィ族からなる反乱軍です。
これは、ルワンダからウガンダに逃れたトゥツィ族難民が中心となり、ルワンダへの帰還を目指して設立されました。

虐殺後、RPFはルワンダの政府を形成し、その指導者であるポール・カガメは大統領となりました。カガメの指導の下、ルワンダは一貫して安定した成長を続け、国際社会からの評価も高い一方で、政府の人権侵害や反対派への弾圧については批判も存在します。

ポール・カガメ(Paul Kagame)

 

ブルンジ共和国(Republic of Burundi)


ブルンジ共和国は、 ルワンダ、コンゴ民主共和国、タンザニアと国境を接し、タンガニーカ湖に面する西部に首都ブジュンブラがあります。
地理的には熱帯気候エリアに属していますが、国土の多くが標高2000m程度の高原のため、比較的涼しい気候となっています。

ルワンダとは、言語・社会構造・民族構成・自然環境がほぼ共通で、独立前は、ベルギーの統治のもとで単一の植民地を形成していた兄弟国でした。

しかし、大虐殺を経て、政治が安定したルワンダと異なり、いまだにツチ人とフツ人の対立が解消せず政治は不安定で、世界の最貧国になっています。

そして世界一危険な国とも呼ばれています。

ブルンジ内戦


ブルンジで1993年から2006年まで続いた、主にフツ族とツチ族の間の民族対立による武装衝突です。

ルワンダ虐殺後、多数のフツ族難民がブルンジへ逃れ、これがブルンジ内戦を激化させる一因となりました。

この戦争は、ブルンジの民主化が進行し、フツ族のメルシオル・ヌダダイエが1993年に大統領に選出されたことから始まりました。

メルシオル・ヌダダイエ(Melchior Ndadaye)

メルシオル・ヌダダイエは、その年の後半に軍事クーデターにより暗殺され、これがフツ族とツチ族の間の大規模な暴力行為と内戦の引き金となりました。

この衝突は、1993年から2006年まで続き、その間に約30万人が命を失いました。
衝突は主にフツ族の反乱勢力、特にFDDと政府軍(主にツチ族から構成)との間で行われました。


【FDD(Forces pour la Défense de la Démocratie: FDD)民主的軍事勢力】

FDDは、ブルンジ内戦(1993年-2006年)中の主要な反政府武装勢力で、民主的軍事勢力の政治的翼は民主防衛力として知られています。
 



第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)


戦争の開始は、ザイール東部での民族間の緊張と、隣国ルワンダの政府と反政府勢力(ハビャリマナ政権と反政府勢力RPF)との間の紛争に起因しています。

 ルワンダ内戦(虐殺)の終結と同時に越境してきた難民の中にいたルワンダ虐殺の首謀者(フツ族の過激派)は、ザイールで力を増し、ルワンダの新政府と地元のバヌヤムレンゲ族(主にトゥツィ族)を攻撃しました。

これに対してルワンダ政府は、ザイール東部の反政府勢力であるAFDLを支援しました。

 


AFDL(Alliance of Democratic Forces for the Liberation of Congo, AFDL)「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合」

AFDLは、コンゴ人の組織であることを宣伝して、全国的な反体制運動であるという外観を保つために、外見上コンゴ人のローレンス・カビラをリーダーに担ぎ上げました。

AFDLの指揮をとっていたのはルワンダやウガンダです。
その他周辺国8か国やアメリカが支援していました。
主にトゥツィ族から成る勢力でした。



AFDLは、モブツ政府の腐敗と国内外のモブツに対する不満を利用して、急速に力を増しました。
また、冷戦終結後、モブツの反共主義者としての価値は低下し、西側諸国からの支援も減少しました。

 

1997年:AFDLは首都キンシャサに進撃し、モブツ政権を打倒しました。

 

これにより、ローレンス・カビラが新たな指導者となり、

国名をザイールからコンゴ民主共和国に変更しました。

ローレンス・カビラ(Laurent Kabila)
1939年にコンゴ(当時はベルギー領)で生まれ。
学生時代から政治活動に参加し、1960年のコンゴ独立後も反政府活動を続けました。その後、1965年にモブツ・セセ・セコが権力を握ると、カビラは彼と対立し、長期にわたるゲリラ戦争を戦いました。
 
1997年にコンゴの新たなリーダーとなりますが、カビラの統治は、反対派の抑圧、人権侵害、汚職により、その後の短い期間で多くの批判を集めます。

カビラは戦争中に支援を得ていたルワンダとウガンダとの関係を悪化させてしまいます。これが第二次コンゴ戦争(1998-2003年)の一因となったのです。


第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)


アフリカ大陸最大規模の戦争として知られています。
そのため、「アフリカの世界大戦」とも呼ばれて、数百万人の人々が死亡し、非常に多くの人々が国内外に避難する結果となりました。

コンゴ民主共和国東部の少年兵

第二次コンゴ戦争には、軍事的、政治的、財政的には少なくとも19カ国が、この戦争に絡みます。

ルワンダ・ウガンダ・ブルンジ・ジンバブエ・アンゴラ・ナミビア・チャド、スーダン、エリトリア、エチオピア、ソマリア、コンゴ民主共和国、南アフリカ、中央アフリカ共和国、ガンボ、リビア、中国、アメリカ合衆国

この戦争は、アフリカ大陸全体を巻き込む大規模な紛争となり、その被害は甚大でした。


ルワンダ政府は、東部コンゴに軍を派遣し、FDLR(1994年にルワンダで発生したジェノサイド後に設立されたフツ族主導の武装組織)を攻撃します。

FDLRはまた、コンゴの豊かな天然資源を違法に採掘・販売し、その収益で自身の軍事活動を賄っていると指摘されています。これにより、地域の不安定化だけでなく、コンゴの資源が不正に掠奪される状況を助長しているとも言えます。

1998年後半から1999年
戦争は地域的な対立に発展し、アンゴラ、チャド、ナミビア、ジンバブエ、スーダンなどがカビラ政権を支援するためにコンゴに軍を派遣しました。
これらの軍はルワンダとウガンダの軍と戦い、コンゴ全土での戦闘が激化しました。

1999年
『ルサカ協定』が署名されました。
この協定では、戦闘停止、外国軍の撤退、全員がコンゴ民主共和国の主権と領土保全を尊重すること、民主的な過程に従った政府の選出などが取り決められます。

この協定により、ルワンダ人民解放軍(RPA)と民主的軍事勢力(FDD)がコンゴの東部から撤退することが決定され、これらの勢力によるコンゴの領土への進入が事実上終了しましたが、、、

『ルサカ協定』は、「戦闘の停止」と「和平プロセスの開始」を呼びかけるものでしたが、実施メカニズムの不在や、複雑な地域政治の現実、コンゴの広大さと複雑な国内政治に直面して、完全には遵守されれずにしばしば無視され、戦闘は続きました。


・・・続く


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