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芸備線に乗って

今年95歳になる父から、昭和20年8月6日の話を聞いたのは新型コロナが蔓延していた最中だった。原爆投下時、広島駅近くにいた事。すぐさま北の方角に歩き続け、辿り着いた芸備線の駅から貨車に乗り、岡山県まで帰り着いたと。驚きだった。併せて、あえて戦争や原爆を子どもの私たちから遠ざけて育ててくれたのだとも感じた。偏見や差別から守ろうとして。私は父があの日見た風景を感じたく、芸備線に乗りに行きたいと思うようになった。夏が終わったというのにいつまでも暑い日の続くある日、私は広島駅から芸備線に乗った。列車が進むにつれ田畑が増えていき、列車の窓に沿線の伸びた木々の枝が当たる音もした。ガタガタと車体が揺れ、ただ運ばれているという体感。ふと窓から見下ろすと川が流れて、そこは見応えのある渓谷だ。峠をゆく頃、にわかに雲行きが怪しくなり大粒の雨が降り出した。それは列車の進行を妨げるほどの激しさだった。辺りが霧のように白く煙る。怖さと心細さが心を支配する。ゆっくりしばらく進むと嘘のように日が差してきて、キラキラと木々の葉が揺れる。白昼夢のような時間だった。雨で洗い流された列車へ、父の命を繋ぎ今に至ることへの感謝をしつつ、私は小さな旅を終えた。
JR赤字路線のひとつ、芸備線は、国を話し合いの土俵に上げた。災害時の命を繋ぐ貴重な路線になるかもしれない。

朝日新聞「声」掲載 投稿文まま

#戦争 #芸備線

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