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ハッピーエンドしか知らない中学生だった

中学生の頃、筋肉少女帯が好きだった。この情報だけで俺がどんな中学生だったか想像することができると思う。勉強も運動もできなくて、当たり前に彼女もいなくて、誰にも誇れることがなかったが、鬱々としたエネルギーだけは自分の中にあった。そんな年頃だった。

「サボテンとバントライン」という曲が好きで、歌詞に現れる真夜中のカーボーイという映画に興味を持った。爆弾魔の少年が映画館に爆弾を仕掛けたが、真夜中のカーボーイにみとれていてその映画館ごと吹っ飛ぶという曲だった。映画を近所のビデオ屋で借りた。紛う事なき名作だった。

以下ストーリーを引用する

物語の主人公は60年代のニューヨークで暮らすふたりの男である。ひとりはテキサスから出てきた体自慢の素朴な青年、ジョー・バック。もうひとりは“ラッツォ(ネズ公)と呼ばれる詐欺師のリコ。ニューヨークの上流階級のレディたちの男娼となって、ひと儲けしたいと考えるジョーは、ある時、バーで詐欺師のラッツォと出会う。いかがわしい男だが、ホテル代が払えなくなったジョーはラッツォのさびれた部屋で一緒に暮らし始める。そのどん底生活を通じてふたりの間には不思議な絆が芽生える。ジョーはフロリダに行きたいというラッツォの夢をかなえようとするが、思わぬ悲劇が待っていた……。

引用終わり

ラッツィオはフロリダにつく前に死んでしまう。彼は長距離バスの中で失禁した後に息を引き取り、ジョーが亡骸の肩を抱くシーンでこの映画は終わる。そのシーンは今でも目に焼き付いている。

この映画の残り15分くらいのとき、中学生の時の俺は「ここからどうやって挽回するんだろう」と真剣に思っていた。本当に真剣に、ハッピーエンドとは言わずとも、(彼らにとって)そこそこのエンディングが訪れるものと信じていた。だからラストシーンは衝撃だったし、それから数日の間、ラッツィオの遺骸を抱いたジョーの表情を何度も記憶の中で反芻することになった。

この映画を見終わって3日後くらいの体育の授業中に、ふと「あの映画はあれでよかったんだ」と思った。この映画を見るまでの俺は、全員の人生が少なくともそこそこ祝福されているもので、苦しいことがあっても最後にはそれなりに救済されるんじゃないかと漠然と思っていた。一般論としては通用するかもしれないが、全員にそんなものが用意されてるわけではないと、この映画で知ったということになる。

この映画の後、アメリカン・ニューシネマの映画を借りまくった。イージーライダーとかタクシードライバーとか。特にカッコーの巣の上でが好きだった。

ニューヨークという大都市や、精神病院といった舞台で挫折や理不尽を味わった彼らがどこかに逃げようとするもどこにも逃げられないというストーリーだった。

逃げ場がなくても、「ここではないどこか」を目指す彼らの姿に俺は共感した。真似てみて、自転車でずっと走り続けたが多摩川を超えるのがやっとだった。少し遅い時間に家に帰って、親の作ってくれたご飯を食べた。気分はアメリカン・ニューシネマ、とは行かなかったが、自転車を漕ぎながら視界に収めた風景は今でも記憶に残っている。ささやかではあったが、それは思春期のうちに経るべき、自分であろうとする試みだったように思う。

それがもう14年くらい昔のことになってしまった。あのときの自分と今の自分との間には、もう一人中学2年生が入ることができる。もうずいぶん遠くに来てしまったし、ある種の逃避のためにあてどなく自転車を漕ぐこともなくなった。それを成長というのだろうが、自分にそういうことがあったということは、いつまでも覚えていたいと思う。

さも大人になった感を出しているが、今でもチャリで逃げたいッス。ウッス。

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