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90年代フィクションの少女

漫画BANGで頭文字Dを読んでいる。車のことはよくわからない。わからないなりに「コーナーでハチロクについてこられてんのか?気がヘンになりそうだぜ・・・」「ロータリー使いはコーナリング命だぜ」みたいな台詞回しは好きだ。でも車うんぬんより、ヒロインの茂木なつきが平然と援助交際をしてることとかに目が行ってしまう。肉体関係も明言されてるし、普通におじさんの助手席に座っていて、なんか時代性を感じますよね。しかもそいつが主人公に言い寄っている。ビックリ。
そのあとに出てくる女の子もこんな調子(画像参照)。池谷という一度デートしただけの男に自分から進んで処女を差し出している。最終的に池谷は約束の場所にいかないわけだが、彼が来ないことを悲しみ「私には女としての魅力がないのかな」と涙を流す。自分の肉体を消費される客体として捉えながら、そこに悲壮感は全く無い。いい時代のいいマインドですね。まぁこの子は20とかだったと思うけど。

連載当時は

この漫画は連載が1995年スタートである。1996年には援助交際という語が流行語大賞にノミネートされているわけで、時代だなぁって感じ。テレクラなんかに中高生が結構いて、いくらでどうの、なんて話をしてたらしい。性の新自由主義って感じの時代ですね。まだまだバブルの残り香はきつく残っており、いろんなものをノリで消費しちゃえって時代だったのでしょうか。また世紀末的な雰囲気の中(95年には阪神大震災、サリン事件)、刹那的に今を楽しむという雰囲気があったのでしょうか。まぁ峠を攻める的な行為自体そういうとこありますよね。ちなみに援助交際が違法化されたのは99年らしく、女の年齢が13を超えてれば当時は合法(なはず)(間違ってたら教えて下さい)。
追記:各地に淫行条例ができたいたため、都道府県市町村によっては95年でも条例違反であったと思われる。

時代は変わったね
昨今は女子中高生の扱いがフィクションにおいても要注意となってきている。おっぱいがでかい女子高生の広告を出しただけで大騒ぎになり、女子高生を性的にまなざすべきではないという意見もでてくる(まぁ、それはそうなんだけど)。村上春樹の1Q84だと、30の予備校教師と17の女の子が性行為をするシーンがあるが、こういうのもいずれ何か言われそうな気がする。ちなみに、村上春樹の書くティーンエイジャーってかわいいよね。ダンス×3のユキとか。

別に現代のその風潮を批判するわけでないが、90年代フィクションを見てると空気感だいぶ違うよなーと思う。92年連載開始のセーラームーンは、中2の月野うさぎと大学生のタキシード仮面が付き合ってる。性的合意年齢が16歳に上がりそうな今、もはや強姦罪で裁かれてしまいそうだ。
95年のエヴァもそういうところありますよね。アスカが胸はだけて加地さんに迫ったり(加地“さん“つーかほぼ同い年だわ)。

こんなんされたら一撃でセックスしちゃうだろ(最悪)

90年代フィクションて、少女が自分のことを性的にまなざされる対象だと自覚してることが多い気がするよね。それとそれを許容していた時代性がセットで俺の性癖にめっちゃ刺さる。自分が女であることを自覚しだした少女とその消費を肯定する社会って字面にするとグロテスクだけど、世紀末の90年代の雰囲気と合わさるといい感じに混沌としてて最高なんだよな。
90年代、一回でいいから体験した過ぎるだろ。

ちなみにそういうフィクション(90年代メンタリティの少女が出てくるやつ)もっとあるよって人はコメントで教えてください。キメーんだよロリコン、死ねやという意見でもなんでもお待ちしてます。

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