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“ヒト“に向き合わないことで生まれる関係性もある

カフェで友だちと話すときは、正面に座るよりも少し斜めに座る方がすき。

すきな人と一緒にご飯を食べるときは、向かい合うより横に座る方が本当に気持ちが伝えられる。

まっすぐ人と向き合わなければいけないときもあるけれど、お互いを見つめ合わない方が居心地がよくなるときも多い。

それはからだの位置関係だけでなく、こころの関係性についても同じことが言えるのかもしれないと思う。

例えば、企画のレビューをしてくれる上司との関係性。

自分が考えたことを見てもらって、レビューされて、直して、またレビューされて、を繰り返していると、いつしか「上司から承認をもらうため」の企画になってしまう。

「上司はなんて言うかな」「これで合っているかな」と、上司のことばかり考えてしまう。

本来は解決すべき課題や、達成したい目標があるから行っていることなはず。向き合うべき“コト“があるし、上司は一緒に“コト“に向き合う仲間なはず。

でも投げかけては返ってきてを繰り返していくうちに、上司と向き合う関係になって、前に進まなくなってしまう。


あるいは、恋人との関係性。

もちろん正面から向き合って、相手の話をていねいに受け止めたり、まっすぐ自分の気持ちを伝えなければいけないときはある。

共に生き、大事な時間を共有するなら、いつかは向き合う必要があると思う。

でもささいな問題ひとつひとつで向き合おうとしてしまうと、一緒にいるのが苦しくなる。居心地も悪くなる。

ぼくは少しまじめすぎるきらいがあってか、すべてのことにきちんと取り組むのが「いい関係」だと思ってしまうことがある。

本当は、ぼくたちは向き合うために一緒にいるのではなくて、一緒にいるために向き合っているのに。

それぞれ別々の方向を向いて、お互いの見ている世界を伝えあったり、同じ方向を向いて支えあったりできる、もちろん向き合うこともできる。

そんなゆらぎのある関係が、「いい関係」なのかなと今は思う。

“ヒト“に向き合いすぎてしまうと、相手がどう思っているかが気になってしまうし、エネルギーも使う。

一方でいっしょに“コト“に向き合うと、ともに前を向ける。力を合わせることができる。

あるいはそれぞれ別の方を向いていると、お互いの視界を伝え合うことができる。

そんな風に、”ヒト”に向き合わないことから生まれる関係性もある。それはけっこう、悪くないものだと思う。

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