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TARO賞の搬入設営と行きと帰りのこと

1月も終わる。
2024年になってから、あっという間の1ヶ月だった。
年末年始も休むことなくTARO賞の制作をやり続けていたので、実はまだ2023年の感覚でいるのだ。
今日は、そんなTARO賞の搬入設営に行って来た話をしよう。

…と思ったけど、疲労困憊絶賛体調不良中につき、続きは随時書いていこうと思う。
どうぞ、お楽しみに。
一旦、おやすみなさい。

…と、ここまで書いて、今日は2月14日。
こちらも例に漏れず、あっという間の2週間だった。

さぁ、随分と時間が経ってしまったが、あの感覚を忘れないうちにTARO賞の搬入設営の話を残しておこう。

1月24日水曜日、朝からレンタカーを借りてアトリエへ。
大寒波到来で、大雪だった。
アトリエのある地域は山の中だから、平地に比べても雪がボッコリと積もっていた。
あんなたくさんの雪、本当に久しぶりに見たな。
レンタカー屋さんで「これ、ノーマルタイヤなんで気をつけてください」と念押しされていたので、いつもより慎重に運転をしてアトリエへ到着。
到着後、大量の作品や荷物を積み込む。
事前にハイエースのサイズを測って、廊下にマスキングテープで印をつけて実際に乗るかを実験して「OK!大丈夫!」と思っていたが、やっぱり思ったようには積み込めない。
一旦梱包した作品を再度梱包し直したり、あーでもないこーでもないとやること数時間。
無事に積み込み、一旦自宅へと帰る。
自宅に帰ってからは、フェリーの時間まで制作の続きをやることに。
そう。出発当日になってもまだ制作が終わっていなかったのだ。
おっかしいなー、おっかしいなー。
出発の1週間前には全ての作業が終わってるはずだったのになー。
…なんてことを思いながらも、作業する手は止めない。

そろそろ夕方。出発の時間だ。
自宅にも忘れ物が無いか、指差し確認をして、お家さんに「行ってきます!」の挨拶をして、いざ出発。
その頃には、雪はすっかり溶けて、いつもの景色になっていた。
最初の目的地は北九州市にある実家。
本当に久しぶりにみんなに会う。元気そうで何より。
30分程の滞在を経て、新門司港のフェリーターミナルへと向かう。
途中、「え?ここで合ってる?」みたいな心細い道を案内するGoogleナビに一抹の不安を抱えながらも、無事にフェリーターミナルに到着。
私が乗る、新門司港と横須賀港を繋ぐ東京九州フェリーの「はまゆう」がお出迎え。
一気にテンションMAX。
とはいえ、雪は降っていないものの、とにかく風が強くて、とんでもなく寒かった。

フェリーは、一旦出港してしまうと車を駐車している甲板には一切の出入りが禁止されるため、必要なものは乗船時に全て持ち込まないといけないので、結局、自宅でも作業が終わらなかった私は作業する大量の作品の材料をフェリー内へと運ぶのであった。
冷静に考えてみても周りから見たら、不審者以外の何者でも無かったと思う。
そこから約20時間の船旅へ。
船内ではプラネタリウムや映画の上映があっている。
露天風呂もサウナもあったり、外の景色も貴重な眺めだ。
それにも関わらず、寝る時とご飯を食べる時以外はずっと制作をしていた私。
途中で船酔いをしてしまい、横になりながらも作業を続けたのは今では良い思い出。
ずっとほとんど寝ずに制作していたから、疲れていたのだろう。
定期的に10分程、寝落ちしまっていたりした。
そのおかげもあってか、船酔いも徐々に回復。
回復したところで、制作以外にやることはないので、ひたすら制作をするのみなんだけども(笑)
そうこうしてる間に、あっという間の20時間。横須賀港に到着。
そこからホテルまで1時間40分。
遠い…ひたすらに遠い…(素直な感想)
無事にホテルに到着した頃には、日付が変わる少し前だった。
アトリエを出発してから、約31時間。
その日は、次の日に備えてぐっすり眠った。

1月26日金曜日。
作品たちを川崎市岡本太郎美術館へ搬入する。
大きな大きな作品搬入用のエレベーターで一気に搬入。すぎょい。目に映るいろんなものが、全て新鮮でかっこいい。
与えられた時間は、荷解きを含めて1時間。
よりによって、カッターを忘れてきてしまい、荷解きに予想以上の時間がかかって焦る…だけど、諦めたら、そこで試合終了です。
半泣きになりながらも、無事に搬入完了。
少しだけホッとしつつも、明日からの設営本番に向けて、やる気スイッチは入ったまま。
お昼ご飯を食べたら、またホテルで制作の続き。
そう。まだ制作が終わっていないのだ。
作業は夜まで続き、一体いつ寝たら良いのか判断がつかないくらい大量の作業が残っていた。
この日は、熊本から設営を手伝ってくれる友人アーティストが仕事終わりにその足で飛行機に乗って神奈川まで駆けつけてくれた。
もう本当に感謝でいっぱいだし、頭が上がらない。
1人で設営できないことにもどかしさも感じつつも、きっともう1人で何かをやり遂げるフェーズは終わって、みんなと力を合わせて形にするフェーズに入って来てるのだとも思った。
結局、日付が変わっても作業を続け、その日も泥のように眠った。

1月27日土曜日。
設営1日目。
公平性を保つために、設営の開始時間と終了時間が決められている。
設営開始の10時になり、全体朝礼が行われる。
事故や怪我に気をつけること。適度に休憩を取らないとそれが事故や怪我に繋がること。設営に入ってくださっている業者さんのこと。
どれも、背筋がピシャッとするような内容ばかり。
「作業を開始してください」の合図と共に、たくさんの大人たちが一斉に動き出す。
静かに設営する人、大人数でワイワイ言いながら設営する人。大声で声を掛け合って設営する人、ハンマーやドリルの音。例えるならば、もう「工事現場」そのものだ。
天井高7メートルの大きな大きな会場は、熱気とエネルギーで満たされていた。
正直なところ、周りを見ている余裕なんて1ミリも無い。
時間と、そして、自分自身のこだわりとの戦いなのだ。
お昼休憩も20分ほどで切り上げ、また設営再開。そんな時間が17時まで続いた。
設営途中ということもあって、不安定な私の作品たち。
学芸員さんから「つんさんの作品は少し心配なので、転倒防止をして帰ってほしい」と言われ、壁側に寄せて、パワーリフト2機で挟み込んで、1日目の設営が終了。
帰りにガストで夜ご飯。よく考えると3日連続でガストでご飯を食べている。最初こそビックリした配膳ロボットにもすっかりと慣れた。
ホテルに戻ってからは、また制作の続き。
信じられないだろうけど、まだ制作が終わっていないのだ。
それを気の毒に思った友人アーティストが少しだけ手伝ってくれた。ありがとう。これでさらに頭が上がらなくなった。
残された設営時間は明日の7時間のみ。その日は緊張感の中で眠りに就いた。

1月28日日曜日。
設営2日目。
例に漏れず、心配性な私は随分と早い時間に到着して駐車場で待機していた。
すると、車の中にいるのも関わらず長くて大きな揺れを感じた。地震だ。
作品のことが一気に心配になる。車を降りて、美術館へと急ぐ。
決まりで会場内へは入れないので、ロビーで待機。
同じく作品を心配した学芸員さんたちが会場に慌てて入っていく姿が見えた。
しばらくしても出てこなかったので「きっと、大丈夫なのだろう」と自分に言い聞かせた。
前日に「転倒防止をして帰ってほしい」と助言をくださった学芸員さんの凄さに感動しながら、感謝の気持ちでいっぱいになった。
もし、倒れていたら、きっと私の心も折れていたと思う。
そんな予想外のアクシデントから始まった2日目の設営。
実は、この設営中に二度大きなトラブルがあった。
特に、二度目のトラブルは「あぁ、私の挑戦はここで終わりかも…」なんてことが頭によぎるような、なかなかヘビーなトラブルで。
それでも、一緒に設営を手伝ってくれていた仲間たちや学芸員さんの優しさで無事に設営を終えることが出来た。

いつもは「あー、もっとここはこうすれば良かった」なんてことが大なり小なり絶対にあるのだけど、今回のTARO賞に関しては1ミリも後悔が無い。
「やりきった!」という感情だけがそこにあって、清々しい気持ちで満たされていた。
だから、どんな結果になったとしても私は最善を尽くしたし、それで十分価値があると思っている。

設営終了後、お弁当屋さんで夜ご飯を買った。
いつもなら、制作に追われ時間が無くて適当に夜ご飯を選び食べていた私だったが、時間をかけてじっくりとお弁当を選んだ。
「お疲れ様」の気持ちを込めて、自分のために、自分が喜ぶ、自分の好きなお弁当を買った。
ホテルに到着すると、入選通知を開封した時と同じように声を出して泣いた。
感じたことのない達成感。無事に設営を終えられた安堵感。クッタクタになるまで頑張ってくれた難病の身体への労い。助けてくれた友人たちへの感謝。もういろんな感情がごちゃ混ぜになって、涙となって流れたのだと思う。
人生の中でリスクを取るべき時が何度かあると思うのだけど、今回のTARO賞はまさに「その時」だと判断したから、相当な無理をした。
今だから言えるけど、よくこの過酷な状況で難病の身体が持ってくれたな…と驚きを隠せないでいる。
それでも、毎日が楽しくて楽しくて、作業が終わらなくても、逆に「あとちょっとで、この作業も終わってしまうから、とにかく楽しもう」と思えたことで夢中になれたのだと思う。

授賞式で入賞結果が発表される。
このnoteを書いている次の日に、神奈川県へと再び足を運ぶ。
授賞式の賞が発表されるその時まで、あわよくば、その後もずっとワクワクとした気持ちを楽しんでいたい。
そんな風に、人生を楽しんでいられたら、きっと幸せだ。

1月29日月曜日。
フェリーの出港までたっぷりと時間があったので、箱根神社に行った。大観山という展望台にも行って、大きなブランコに乗った。
晴れていたら、目の前に富士山が見えたらしいが、生憎の曇り空。
いつかリベンジしてみよう。ほら、また人生の楽しみが出来たよ。
ホッとして疲れが出たのか、途中でグロッキーになったので車中で仮眠。
すっかり夜になったので、横須賀港へと向かった。
途中で、どうしても焼き鳥が食べたくて寄った素敵な焼き鳥屋さん。
「今から熊本へ帰ること」「TARO賞のこと」を話すとカウンターに座っていた常連さん4人と店主のご夫婦が喜んでくれた。
「結果を知らせに来てほしい」と言われたので、「また寄りますね」と約束をしてお店を出た。
こうやって、自分にとって大切な場所が増えていく。
人生というものは、大切な人や大切な場所を増やしていくゲームみたいなものなのかもしれないね。そんなことを思った。

帰りのフェリーでは、プラネタリウムを観ることが出来た。外の景色も、レストランの美味しいご飯も満喫できた。
目に映る全てのものがキラキラと輝いていて、心がとても喜んでいた。
プラネタリウムはヨギボーに寝転んで観るスタイルだったこと、フェリーの心地良い揺れ、そして快適な室温と波の音のBGMの効果なのか、周りを見渡すと私以外の全員が寝ていた。中にはいびきをかいてる人も。
だから、私は時折襲ってくる睡魔にも負けずに、プラネタリウムを独り占めしていた。
映し出された星空を観ていると、とても大切なことを思い出した。自分が生まれてきた意味とか使命とか、そんなこと。

1月30日火曜日。
新門司港に到着。帰りのフェリーは「それいゆ」だった。
大きな大きな海の途中で、横須賀港行きの「はまゆう」と新門司港行きの「それいゆ」がすれ違う瞬間があった。
お先に「はまゆう」が汽笛を鳴らす。それに応えるように「それいゆ」が汽笛を鳴らす。
そんなやりとりを甲板の上から眺めながら、胸の奥がキューっとなった。
まるで、人生が交差するその瞬間を垣間見たような、そんな気持ち。
「はまゆう」に乗っている人たちはどこへ向かうのだろう。
「それいゆ」に乗っている人たちはどこへ向かうのだろう。
そんなことを考えて、心がワクワクした。
すっかり夜になり、新門司港から実家へ。
お土産を渡して、展示の話をして、みんなが労ってくれた。
それだけでも大きなご褒美をもらったようなそんな気持ち。
次の日にレンタカーを返さないと行けなかったので、遅くなる前に熊本へ車を走らせる。
実家を出発する時、親や姉弟やその家族が全員で見送ってくれた。
いつか私が教えた「ご安全に!」というポーズと共に。

1月31日水曜日深夜。
無事に、自宅に到着。
約1週間ぶりの我が家。玄関の鍵を締め忘れていたことに気が付いた。
用心深く、心配性な私が鍵を締め忘れるなんてことがあるなんて、ね。
きっとそれだけいっぱいいっぱいだったんだろう。
朝になり、アトリエに梱包材や梯子を運んだ後、大好きなアトリエ近くの神龍八大龍王神社と菊池神社に無事に帰って来られたご挨拶に行った。
ハイエースでのドライブをしばし楽しんだ後、無事に返却。
1週間お世話になったハイエースにお礼を伝えて、1週間お留守番してくれていた愛車をヨシヨシして、自宅へと帰った。

フェリー内でのことや、旅の道中のことを逐一インスタグラムのストーリーで実況中継していた。
それらを観た人に「一緒に旅をしている気分を味わってほしい」というそんな私の気持ちによるものだった。
更新回数が多いので、鬱陶しいと思われるかな…なんてことも考えたけど、そもそもそんな風に思う人は、私のインスタグラムのストーリーなんて観ないから、自分の素直な気持ちに従って更新を続けた。
旅の途中、そして、旅が終わった後にたくさんのフォロワーさんから「一緒に旅をしている気持ちになって楽しかったです」とDMをいただいた。
私の想いが伝わっていたことがとても嬉しかった。

これにて、私のTARO賞の搬入設営の記録は終わり。
5600文字を超えた長文を最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
それでは、明日の神奈川行きに備えて寝ます。おやすみなさい。
次は、TARO賞の結果についてのnoteを書こう。

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