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日本絵画歳時記 梅(2)

 こんにちは。椿です。
 梅の絵に関する第2回です。文学などに見る梅のイメージ史については、前回お話ししましたので、今回は絵の紹介を中心に話していきたいと思います。まずは襖や屏風などに描かれた花鳥画です。

 花鳥画というのは、文字通り花や鳥が主題となった絵のことです。その場を華やかにすることから、古くから襖絵や屏風絵の主題として描き継がれてきました。四季折々の花木を季節ごとに、あるいは織り交ぜて描くことで、その場を理想の楽園のように飾り立てるわけです。そうした花鳥画において、梅はしばしば描かれる人気の花木です。

狩野永徳「花鳥図」聚光院

これは室町時代の末から桃山時代にかけて活躍した狩野永徳の襖絵です。京都の大徳寺聚光院というお寺の室中(禅宗の小院で中心にあたる部屋)に設えられています。南に向いた部屋の東、北、西側の各襖に絵が描かれているのですが、これは東側で、北と西側には松の木が描かれています。
 画面を突き破るように上に伸びた幹、一枝を水にくぐらせながら川面を這うように横へ横へと伸びる枝、巨木と言ってもいい梅の木の姿が堂々と表されています。

 本図は永禄9年(1566)頃の制作と考えられています。永徳は数えで24歳でした。比較的若い頃の作品ということになりますが、すでにその技量は抜きん出ています。また、遠景および中景のモチーフを少なめにして、近景の大樹を際立たせる手法は、それまでのスタイルとはやや異なるもので、時代が変わりつつあることを感じさせます。
 そうした様式に、梅もまたうまくはまっています。縦横に枝を伸ばし、変化に富む姿を見せるという梅の木の特徴が、大画面の障屏画(襖絵や屏風絵の総称)において、メインのモチーフとして活かしやすかったのだと考えられます。
 もちろんそれは、早春に咲く、春を象徴する花木の一つであるという、意味の上での特徴も重視されてのことです。特に禅宗絵画は中国への憧れが強いせいか、桜よりも梅を好む傾向が強いように思います。

雪舟「四季花鳥図」右隻 京都国立博物館
雪舟「四季花鳥図」左隻 京都国立博物館

 次にご紹介するのはそれこそ禅宗の画僧、雪舟の「四季花鳥図」屏風です。雪舟筆の伝承を持つ花鳥図屏風はいくつか伝わっていますが、真筆はこれだけではないかとも言われる優品です。屏風は右隻と左隻、二つがペアになっているものを一双と数えますが、その一双の画面に四季の景物を、少しずつ場所をずらして四つすべて描く構成になっています(ただし、この絵に限っては秋の景物は少ししか登場しません)。
 一続きの画面内に異なる季節を混在させることを、不思議に思うかもしれません。しかし、東洋の絵画にはよくあることです。これは東西南北の四方と春夏秋冬の四季を組み合わせる、中国古代の陰陽五行思想に基づいています。詳しくは機会があれば別にお話ししますが、要は四季を一つの空間内に揃えることで、この世の時間的秩序を象徴しているのです。

 それはさておき、雪舟の屏風では左隻に梅の木が描かれています。一見して分かるように、雪の降り積もった冬の景色になっていますが、木には花も咲いています。まだ雪の残る早春に咲く様子を表したものでしょう。まさしく、他に先がけて一人咲く梅の姿です。

葛蛇玉「雪中梅に烏図」エツコ&ジョー・プライスコレクション

 続いては、葛蛇玉の「雪中梅に烏図」です。これも雪景色となっていますが、面白いのは背景が黒く塗り込められていることで、雪の降りしきる夜の情景を描いたと考えられます。木に降り積もった雪は紙の地の色を残して表す一方で、降る雪は胡粉(貝殻が原材料の白色絵の具)を用いて表しています。
 梅の木は幹が「く」の字に伸びて画面の外に消えていますが、右方に折れ曲がった枝が再び現れており、かなりの巨木と考えられます。細く分かれた枝をよく見ると、丸く表された蕾がたくさんついているのが分かります。ただ、ごく一部、例えば枝に止まる烏の頭上などには、すでに花開いたものも見えます。

 本図は「雪中松に兎図」と一双をなす作品で、闇と雪、烏と兎という黒白の対称性を意識した絵になっています。その点では、梅と松はサブモチーフ的な立ち位置とも言えますが、雪の降る季節にふさわしい花木として選ばれたと考えられます。
 前回、梅が早春に花咲く木として、中国では高潔の象徴と見なされた話をしましたが、松もまた、冬であっても葉の緑を保ち変わらぬ姿を見せるとして、同じような象徴性を与えられていました。そういう点でも両者は共通項があると言えます。
 蛇玉は18世紀後半に大坂で活躍した画家ですが、現在数点しか作品が確認されていません。実質、この作品のみで名の知られている画家と言えます。しかしその表現力は確かで、本図は大変印象に残る作品となっています。

呉春「白梅図」右隻 逸翁美術館
呉春「白梅図」左隻 逸翁美術館

 続く2点も夜の梅を描いたと思われる作品です。まず一つ目は円山四条派の絵師、呉春の「白梅図」です。これもまた背景が特徴的な作品で、刷毛目のようにまだらな縞模様が目につきます。発色も独特ですが、実は浅葱色に染めた布を紙の代わりに屏風に貼り、その上に絵を描いているのです。
 夜の情景をどのように表すかというのは、画家の頭を悩ませる問題でした。現実の通りに暗く描きすぎると、何を描いたのか分からなくなってしまうからです。大抵は夜であることを月などで示唆して、画面そのものは明るくするのが基本です(前回あげた蕭白や竹田の絵を見てください)。しかし、呉春は染めた布を文字通りキャンバスとすることで、宵闇のような薄暗い空間を現出させています。

 肝心の梅を見ていきましょう。幹や枝は水墨で表されており、師である円山応挙もしばしば用いた、付け立てという技法が用いられています。これは濃淡二種の墨を一つの筆に含ませ、一息に描くことで、微妙な階調を表現しようとする技法です。
 本作の梅はどの木も幹が細めで、さらに細い枝が無数に伸び、小さくて白い花がたくさん咲いています。こうした花鳥画には珍しく、横を向いたのや裏側から捉えたような表現があるのは、写実を重んじた円山派の特徴を受け継ぐと言えましょうか。可憐な白梅が薄闇の中に浮かび上がる様は叙情的で、独特の風情を画面に醸し出しています。
 呉春ははじめ、与謝蕪村に絵を学びました。その蕪村の辞世の句は「しら梅の明(あく)る夜ばかりとなりにけり」です。呉春がどこまで意識して本図を描いたのかは不明ですが、二人を知る人がこの絵を見れば、きっとその句を思い出したことでしょう。

尾形光琳「紅白梅図」MOA美術館

 もう1点の作品は尾形光琳の「紅白梅図」です。歴史の教科書にもよく載っている有名な絵ですが、明るく華やかな金地が印象的で、一見しただけでは夜の情景とは思えません。
 ポイントとなるのは、一双屏風の中央、左右隻をまたいで流れる川の表現です。黒い地に鈍く沈んだ金属的な色で水流が表されています。この部分の彩色については、どういう絵の具を使っているのか、長らく議論が交わされてきました。近年の科学的調査で、銀の成分が検出されたと報告がありました。水流全体に銀が残存し、そのうち黒く見える部分からは硫化銀が検出されたというのです。おそらく、硫黄によって銀を部分的に黒変させたものと推測されます。

 この、銀を用いていること、さらにその一部を黒変させていることが重要です。銀はそもそも金と対になり、例えば太陽に対する月を表す色として、古来から象徴的に用いられてきました。つまりは夜を想起させる色です。本図ではそれをさらに部分的に黒変させているわけですから、夜の闇の中で流れる水流を象徴的に表したと見ることができます。
 もちろんこうした解釈は、これまで見てきた梅と夜の関係性を下敷きにしています。暗香疎影の例を引くまでもなく、視覚の制限される夜にこそ梅の香りは際立つという、古くからある考えです。

 夜の表現法の話ばかりになりましたが、本図の梅も独特の雰囲気があります。向かって右隻に紅梅、左隻に白梅を描いています。紅梅が小枝を上にまっすぐ伸ばし、比較的若木に見えるのに対して、白梅は幹も太く、枝は曲がりくねっており、老木のように見えます。滔滔とたゆたう水の流れを挟んで、紅白の梅が対照的に表されていると言えます。
 本図については、暗香疎影の漢詩を主題としているという意見のほか、能の「東北(とうぼく)」が下敷きとなっているという意見があります。「東北」は平安期の歌人、和泉式部が植えたという梅の木にまつわるお話です。その後半は夜の情景となり、夜の梅について詩も歌われます。光琳は子供の頃から能に親しんでいましたから、この話を下敷きにした可能性は十分にあります。

 思いのほか長くなってしまいました。今回はここまでとします。次回は掛け軸など小画面の絵と、浮世絵に見る梅を紹介したいと思います。

※公開後、狩野永徳「花鳥図」に関する記述を一部変更しました。初稿では永徳の「大画様式」と関連付けて書きましたが、自分で読み直してみて、本図の時点ではまだその特徴は強く出ていないと考え直したためです。詳しくはまた別の機会にお話ししたいと思います。

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