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誰もが観客であり、誰だって主人公である。

「Hyper Ambient Club 2023」

《私の唇はあなたの耳に、あなたの手は私の手となり、私たちが作った影の下で動く言葉》

【鑑賞記録】2023.2.25 19:00〜

耳を覆うほどの重低音が鳴り、3m先が見えないくらいにスモークが焚かれる中、照明は蛍光灯一つ。私の五感は、強烈な「場」の力によって自由を失った。

冷たい風が屋根を打つ夜、身体が小刻みに震えている。寒さで震えているのか、興奮で震えているのか、それとも、これからステージ中央に立つパフォーマーのように、武者震いしているのか。手に持った懐炉の温かさだけを頼りに、この場所に立っている。

私の視線の先には、ステージでも、パフォーマーでも、スクリーンでもなく、"私"がいる。そこに、一人だけ他とは違う立ち振る舞いをしている彼女との距離を測りかねて、私と同じように半歩後ろへ下がろうとする人がいる。
誰が演者で、誰が観客なのかは、今は重要でないのかもしれない。私の思いや感覚とは関係なく、ここにいる人間たちの身体の振る舞いだけが、この場の主人公を決めている。

わかったことが一つある。
蛍光灯の下、薄着で立っていた6人は、この場にいた誰でもよかったのかもしれない。私がそこにいた可能だってあったはずである。

私たちが生きる社会は、人格、身体、生命の唯一性を前提にして物事が成り立っているが、それらが匿名性を帯びたとき、はたして唯一であることを証明できるだろうか。

私たちが知っている、わかっていると思い込んでる物事でも、身体は簡単に正体を見せつけてくる。敷地理の作品は、パフォーマーと観客の身体を繋ぎ合わせることで、それをわかりやすく体験させてくれる。

世界は言葉で語り尽くせると誤解してしまうような昨今、このような作品を体験できることは貴重なことであるし、それを続けて生み出そうとしてくれる作家がまだ20代であるというから、今の時代を生きていることに少しだけ肯定的になれる気がする。同世代の一人として、明日も頑張って生きていきたい。

公演前は別の空間で待たせるという、これもまた身体性への影響が大きい設えである。
会場周りの設えも手が混んでいた
24,25日夜の回限定、アフターパフォーマンス


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